格闘技と武道のちがい

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1ななし
出尽くしたかとも思うけど
最近、自分はどっちかなと思ってます
違いを明確に人に説明できません
思う事書いて下さい
2名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 05:27
う〜ん?難しい。
格闘技は格闘技術を磨く事かな?
んで副産物でスポーツマンシップが学べる。
でも僕は学べてない。

武道は技術と心、同時に学ぶ事を最初から目的にしてるのかな?
バカだからわかんな〜い。
3名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 09:37
格闘技・・最終的な目的が技の修得
武道・・最終的な目的が人生の道、生き方

2におおむね賛同
4古武道家(10年目) :2000/10/23(月) 10:43
スポーツマンシップと武道の間には大きな違いがあると思います。
武道の前提は「人生とは闘いである」というところにあります。
その闘いにいかに勝つかということを突き詰めていくことが武道です。
そのための技術が武術です。自分が闘う対象とは何かを決めていくことも
含めて武道です。体術や剣術だけでなく、生きる術を身に付けていくということです。
格闘技というのは文字通り格闘するための技術であり、
それ以上でも以下でもありません。それはスポーツと同義だと思います。

社会的に攻撃してくるような現代の敵に対して、
武道は対処する指針を与えてくれますが、格闘技は何も与えてくれません。
5宇讃久斎@HAJIME:2000/10/23(月) 13:10
格闘なんてめんどくさいことをしないですむように、格闘の前に勝負を
決してしまうのが武術だろう。
格闘技なんてものはついちょっと前までこの日本には言葉すらなかった
んやで。若い人たちはそういうこと知ってる?
そういう言葉が出来たのはだいたいブルース・リー以降。
「マーシャル・アーツ」という言葉が日本に上陸しなければなかったの。
言葉がなかったんだから、格闘のための技なんてものは概念としてもな
かったと言っていい。
昔は誰も格闘をするためになんぞ武術も武道も考えてなかった。スポー
ツなんて考え方も戦後の話。
格闘やスポーツを意識した分、技術的にはレベルダウンしたのかも知れ
ないねえ。

武道は武術の基礎を身につけた上で、それを実生活や人生に生かすため
の方法を追求するもんだろう。

もっと日本語を当たり前に考えようよ。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/23(月) 13:36
あ、すいません、武道に興味を持っているだけの通りすがりのスポーツマンですが
武道を行うことにより得られる、方法とは具体的にどのようなものですか?

スポーツ化によるレベルダウンといわれると凄く悲しいのですが
僕はサッカーを通じて、責任感や共同体での自分のあり方、回りへの配慮
努力して向上する喜びや、その重要性。
また敵に勝つためには油断せず研究する大切さ
敗北したときに生じる悔しさ、また相手への尊敬
そして仲間と共に勝利したときの達成感や感動を得ることができました
「人生は戦いである」と言われましたが、こういった経験は社会での戦いに非常に役立つと思います

スポーツの理念的なルーツは武道に近いものがあり
違うのは日本的なもの(良い意味での)がある事と格闘技術が身に付くの
二点のみだと思っていました。

すこし冗長な文になってしまいましたが、武道家の皆さん
わかりやすいように説明していただけたら嬉しいです
7名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/23(月) 14:02
>6
いんや、俺的にはあんたの定義で正しいと思うよ
武道精神とスポーツマンシップの違いなんて
歴史ある日本伝統(いい意味でね)がある事と格闘技術が付随している事ぐらいだろう

武道には求道的なものが色濃いと言われてるけど、結果的に見るなら
得られるものは似たようなものだと思う。
サッカーと比べるとどうしても個人的な傾向が強くなってしまうから
あまり団体での責任とかそういったものは武道だと得にくいと思う
激しいレギュラー争いとかとは一切無縁だったから、羨ましいぐらいだ
(もっとも、最近ではそういう感覚は柔道や空手の代表選考とかで得られると思うけど)
武道の競技性もそういうところを取り入れるのは良いことだとも思う

それでも武道に魅力を感じるのはアンタの言う日本的なものに惹かれるんじゃないかなぁ
日本的といっても武道によっていろいろ理念が違うから奥が深いしね

おれは武道の競技化を一概に悪いとは思わないよ
スポーツの良い面を取り入れていると解釈している
俺が武道で得られたことと言えば
アンタのスポーツで得た事+日本的なもの−団体競技ならではの経験
・・かな?
87:2000/10/23(月) 14:04
>6
あ、あくまでこれは俺一人の見解にしか過ぎないので
武道家がみんなこの考えと思わないように!

・・ってこれは蛇足?
9>7:2000/10/23(月) 14:07
サッカーでそんな大層な経験が得られるわけねーだろ!ぼけ!!
女子供に媚びた、ゲスなスポーツと武道を一緒にしないでくれたまえ
107:2000/10/23(月) 14:10
>9
ハァ?>>6の間違いじゃねーの?
っていうかお前の言ってること自体が間違ってる
失せろ
11名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/23(月) 14:28
>6,7
だいたい言っている通りなんだが
”違うのは日本的なもの(良い意味での)がある事と格闘技術が身に付く”
簡単に書いているがここが大きな違いになっているんだよ。
トレーニング方法は今でこそ近代的な方法も取り入れられているが
それだけではないよね。
昔ながらの(極端な言い方をすれば)非科学的な自分の限界を超えたところでの
鍛錬もやる。これ以上やったら逆にマイナスなんじゃないかって思うようなところまで追い込むことがあるんだよね、
武道って。
スポーツの場合自分に厳しく練習はするだろうけど
これ以上はやらないって言う所のボーダーラインが武道とはかなり違うんじゃないかなと思います。
スポーツの理念的なルーツは武道に近いものがあるけれど
武道のほうがもっといろんな意味で厳しいです。
箇条書きにして上げてくれと言われるとちょっと面倒なので
誰かいくつか箇条書きにして書いて。
上下関係にしても道場内の上下関係のほうが厳しいと思う。
師範の言ったことに従うか従わないか
このボーダーラインもスポーツとは違う。
スポーツマンから見たら結構理不尽な要求をされていると思うよ。
なんとなくわかりますか?わかんないかな…
12宇讃久斎@HAJIME:2000/10/23(月) 14:29
>>6番さん

別に武道に比べてスポーツが劣っているとかそういうことを言っている
のではないので、悲しむことはないのですよ。勘違いしないように。
武道がスポーツ化されたことで一番無くなったものは「生死」に関わる
認識ではないかと思います。
スポーツは生き死にというものは最初から考えないものでしょう。死ん
では困るんですからね。
武道はまず殺すことを学び、その上で生かすことを考えていくものでし
ょう。
医術だってそうでしょう。医者はどうやったら人が死ぬか解ってから人
を治すんですから。
スポーツは大抵のものは殺し方は教えないんじゃないでしょうか。

生死を問題にするか、生の中での問題を突き詰めるか、それはその人の
好き好きでよいでしょうが、精神性ひとつにしても取り組む観点はやは
り違うものだと思いますよ。
そりゃ、スポーツだって死ぬことはあるにしてもね。

武術が人の命を奪う術でもあるならば、最初から命を奪うことを目的と
しない競技になってしまうと、当然命を奪うことに対する術のレベルは
低下するのは当たり前ではないでしょうか。
そしてそれでいいのではないですか。
人を殺すことを考えたくない人はいるんだから。
13古武道家(10年目):2000/10/23(月) 15:07
>6

スポーツ(格闘技も含む)というのは体育です。
つまり健全な体を育むためのものです。健全な肉体を育むことは
邪な考えに惑わされない健全な精神を育てるのに必要なことです。
しかし武道とはそこに道と書いてあるとおり「いかに生きるか(死ぬか)」を
探求していくものです。スポーツとは概念が異なります。
当然、スポーツを通して武道を実践していくという姿もありますし、
それはすばらしいものだと思います。柔道しかり、剣道しかりです。
ましてやオリンピックレベルの世界になりますと、その世界は
相当過酷なものであり、やれ生き死にがどうだこうだと頭の中で
思考をこねくり回している外野には想像を絶するような
厳しい世界があると思います。そこに、人がよりよく生きるための
精神性が伴うならば、それは武道に通じるものだと思います。
サッカーを通じて得られたものを社会生活の場(闘いの場)で
実践して行く。これができればそれはまさに武道だと思いますよ。

しかし忘れてはならないのは、スポーツ競技はルールの枠組みで
優劣を競うものなので、一般的な闘いに関して甘さが生じがちです。
暴漢に銃を持ち出されたら「それ反則」ではすまないのです。
あらゆる闘いの状況を具体的に考えていくことが武術に繋がってきます。
大風呂敷を広げれば、現代日本においてテポドンにいかに対処するかも
武道・武術の一つです。スポーツ化によるレベルダウンということが
実際に言われているかどうかはよく分からないのですが、
ルールにより戦いの状況を限定するという文脈でならば、
たしかにそうかもしれません。しかし前にも書いたとおり、
スポーツにも厳しい世界はありますし一概にレベルダウンとは
言えないと思ってます。

乱筆ご容赦。
146:2000/10/23(月) 15:51
>7さん、11さん、宇讃久斎さん、古武道家さん
なるほど・・わかりやすい解説ありがとうございます
スポーツと武道の決定的な違い、僕なりにわかったと思います
恥ずかしい言い方ですが、「日本的」なものの奥深さ
「生死」にまで思考を進める哲学的なエッセンスが武道には含まれているんですね

僕のサッカー部は上下関係が非常に厳しかったのですが
これは武道家の方がおっしゃる「日本的」なもの、伝統だと僕は解釈しています
(いい意味で、ですよ^^;)

あと内容のハードさの割に長く楽しめる(←この言い方は適切ではないかも)
のも武道とスポーツの違いですね。みなさんも末永く頑張ってください
15ななし :2000/10/24(火) 04:14
いろいろなご意見ありがとうございました
最近、なんとなくですが、武道とは古武道さんが4で述べたようなことではないかと
思えてきました
そうすると、6さんが述べたようにスポーツでも獲られるものではないかと
悩んでしまいました
人に明確に違いを説明するには、宇讃久斎さんが言ったように「生死に関わる認識」
が必要なのでしょうね
最近、僕は格闘家としてでなく、武道家として生きていきたいと思ってます

もう一つ聞きたい事があるのですが、別にレス立てます
是非、ご意見お願します
16名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/24(火) 06:34
>5
よけいなことかもしれないけど一言。
「マーシャルアーツ」という言葉は
日本語、中国語の「武芸」の訳語ですよ。
昔からある日本語です。
17宇讃久斎@HAJIME :2000/10/24(火) 10:42
>>16さん
少し詳しくお尋ねしたい。
アメリカにはもともと「マーシャル・アーツ」という言葉はなかったの
でしょうか?だとしたらいつ誰が持ち込んだのでしょうか?
日本に「マーシャル・アーツ」という言葉が入ってきたとき、「武芸」
という言葉を当てはめましたか?
18名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/24(火) 11:37
武道家も試合に出て心を鍛えなさい!
19宇讃久斎@HAJIME :2000/10/24(火) 11:59
試合に出るとどんな心がどのように鍛えられるのでしょうか?
ぜひお願いします。
20名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/24(火) 12:03
負けるかも知れない、自分の今までの練習は成果に繋がらないかもしれないという気持ちを抱えつつ、
結果を出すという所に試合の厳しさと良さがあると思います。
21宇讃久斎@HAJIME :2000/10/24(火) 13:20
>>20さん
そんなの人生でなんぼでもあるし、普通のお仕事でもそうやないんかなあ。
まあ、ちゃらんぽらんな人生を送ってるやつもいるんでしょうが・・・
当然武道もそうでしょ。武道家という専門家なら。
試合に出ないと鍛えられないってなものでもないでしょう。
それだけ?
22名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/24(火) 13:28
試合以外のことはさておき、試合に出ると心が鍛えられるということです。
23宇讃久斎@HAJIME :2000/10/24(火) 14:58
>>22さん、なるほど。わかりました。
一応、試合に出ると心が鍛えられるとしましょう。
でも試合に出なくても鍛えられますよね。
だったらなぜ18さんはあえて試合に出て心を鍛えなさいと言ったのか。
σ(- -)にはちょっとわかりません。
18さん、もしくはわかる人、お願いします。
24名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/24(火) 15:02
井の中の蛙、大海を知らず。
ってやつでしょう。
25名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/24(火) 15:13
仮説だけでなく検証(試合)というステップが
物事の完成までのサイクルには必要であろうという
実証主義がベースにあり、
検証という作業は自分の仮説や努力が粉砕されるかも知れない、
その恐怖を乗り越える事により心が鍛えられる、
という事と推理するのですがどうでしょうか。
26宇讃久斎@HAJIME:2000/10/24(火) 15:48
>>25さん、そうですよね、検証が大切です。
で、武道に検証がないとでも?
そもそも試合とはその検証が自分自身で出来ない未熟者がいるので、
わかりやすい検証の仕方として出てきたものではないでしょうか?
要するに試合でしか検証出来ないのは未熟ゆえ?ではないでしょうか。

仰りたいことはわかりますよ。
検証しない修行者はたくさんいますがね、そういうのはそもそも
「武道家」ではないでしょう?

その道の専門家である者に対して、あまりにも安易な発言をされたので
はないでしょうか?
27名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/24(火) 16:33
25です。
26氏のいわんとする事には共感を覚えます。
試合というのが、一つの稽古の形態の一つであることも
わかりますし、あくまでも測定方法の一つであるのこと
もまったくの同感です。
一つ確認したいのですが試合は「自分で検証出来ない未熟者の測定方法」
という定義ですがこういう事でしょうか?
釣りを例に取れば、「この仕掛け」で魚が釣れるか釣れないかは
実際に魚を釣ってみるのが一番である・・・これが試合とします。
ただ、仕掛けを見ただけで分かる程度の「仕掛けとして不足」
(例えば針が突いていない!)を検証するのに糸を垂らしても
無意味である。しかしビギナーは仕掛けを海で試してみないと針が
ついていなこともわからない。
さらに魚が釣れるか釣れないか一見ではわからないような
微妙な違いをわかるまで熟達した釣り師・・・それが武道家である。
ということでしょうか?
あまり本筋とは関係ないのでさげておきます。
お手が空いたときにでも教えて頂けたら幸いです。


28名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/24(火) 23:59
検証ができているという確証はどうやって得られるのでしょう?
確証がただの思い込みだったり勘違いだったりすることは、
未熟者にはよくあることだと思います。もっとも、勘違いだった
ことが気づかされてはじめて自分が未熟者であることを知るの
ですが。
自分としては、上級者と同じことができてかつ上級者がそれを
認めてくれて初めて確証が得られる気がします。
でも、自分の周りに自分より上級者がいなくなったときに、
どのように検証結果に確信をもったらいいかは今の私には
わかりません。
こんなことは杞憂なのかもしれませんが、だれかわかる人
はいますか?
29名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 00:49
思い込みで良いんじゃないっすか。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 07:08
「キミは見事に宇宙と一体化してるね」と他者から言われたら
たぶんやだなぁ。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 07:24
>>30
たぶん宇宙と一体化している人同士は互いに分かり合える(和合)
と思いますよ。
だから、冷やかしかどうかはすぐにわかると思います。
そういう意味じゃない?
32名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 10:26
>>30
たしかにほめられたような気がしない
33名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 10:50
なんの試合かにもよりますが試合程に緊張する機会ってのはあまりありません。
試合前の練習は気合が入りますし、心身共に辛いです。
試合なんかなくても何時でも稽古に集中でき、戦う心構えのある人は良いでしょう。
でも、それが出来ない人にとって試合に出る事は心を鍛えるのに良いと思います
34宇讃久斎@HAJIME:2000/10/25(水) 14:51
>>27の25さんどうも

>さらに魚が釣れるか釣れないか一見ではわからないような
微妙な違いをわかるまで熟達した釣り師・・・それが武道家である。
ということでしょうか?

なかなかよい例えをされますね。
やってみなくてはわからないではやはり武道の専門家とは言えないでしょう。
やらなくてもわかる、見ただけでわかる境地を目指していくのが武道家では
ないでしょうか。
ま、武道にもいろいろありますからね。試合を取り入れているところも多い。
しかしながら試合を取り入れてない稽古形態のものの専門家に試合に出ろと、
そしてその理由が心が鍛えられるなどと言うのは非常に失礼な物言いです。

それぞれの武道にはそれぞれの道の追求の仕方がある。試合を採用する
武道でも死ぬまで試合をしているわけではないのですからね。
確かに若いうちは試合を通して理の検証をすることも必要なこともあるで
しょう。
実際に実戦や試合の経験がない「武道家」などは存在しないと思いますよ。
そんなことはすでに過去に経験済みの人が多いのではないでしょうか。
あとは自分の考える武道の研鑚の中で自分自身の術理を日々検証している
ものと思いますよ。それが武道家、武道の専門家でしょう。

その専門家に対して安易に試合をしろだとか、試合で心が鍛えられるとか、
言うのがちゃんちゃらおかしいと言うことです。
そんなことは百も承知でなおその上の境地を目指すのが武道家ということで
すよ。
ま、ちょっと武道をやっているからと言って、簡単に武道家を名乗る人間も
多いですし、おそらくそういう人に対して言ったものと思います。
要はみんな簡単に「武道家」という言葉を使いすぎってことですよ。
武道家でなくて試合以外で検証も心も鍛えられない人は試合をすればいいで
しょうし。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 18:27
でも色々な人に会ったりして感じるのは、武道家はこうあるべき!ってのはあるけど
本当の武道家なんて居ないんではないか?とも思います。
皆さんは今までに、この人は真の武道家だ!って方に会った事ありますか?
差し支えなければ、どなたか教えていただけないでしょうか?
一度、お会いしてみたいです
36宇讃久斎@HAJIME:2000/10/25(水) 18:46
>>35さん
人それぞれ価値観があるんだからさあ。
そんなもん聞くより、自分で探せば?
37名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 19:22
探してるんですが見つからないんです。
教えていただければ見つけれるかもしれないと思いました。

38宇讃久斎@HAJIME:2000/10/25(水) 19:27
>>37さん
自分が何を探そうとしているのか明確なものがあるのでしょうか?
まず何を探そうとしているのか自分でわかっていないといつまでたっても
みつからないと思いますよ。
まず自分の心の中を探してみましたか?
39名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 19:31
>>37
とりあえず自称武道家の宇讃氏に見学を希望したらどうどすか?
人格はともかく、少なくとも私の主観ではたまにまともなこと
も言ってるし。
40宇讃久斎@HAJIME:2000/10/25(水) 20:12
見学なんかしてもわかりませんよ。
そんなもんでわかったら苦労しません。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 20:16
基本的に「残心」があるのは武道。
油断して、殴られたり蹴られたりしてルールにそってないと、必要以上に抗議するのは格闘技どまり。

極真は武道であるとしても、
終了の合図に油断し、フィリヨに蹴りを食らったアンディは格闘家ではあっても武道家ではない。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 20:33
>>40
ってこたぁ、自分の目で探しても無駄ということやね。
自薦、他薦の人を信じるしかないわけね。
43宇讃久斎@HAJIME:2000/10/25(水) 20:52
>>42さん
自分の目で探せるような人がこんなところで質問するわけないって
ことがわかってますか?
僕は彼に対してコメントしてるんよ。
ほんま大丈夫かいな、ここの連中。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 22:05
格闘技=競技(スポーツ)、武道=基本的に状況を限定しない
というイメージがある。武道は体重制がないし、目つきとか金的もあるし。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 23:26
武道家は宇讃さんのような発言はしません
46名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/26(木) 00:33
>自分の目で探せるような人がこんなところで質問するわけないって
>ことがわかってますか?

なーんで、そんなことがわかるんだよ?
勝手に決めつけんじゃね−よ。
やっぱ全然大丈夫じゃねーな、元龍貴の頭わ。
4725:2000/10/26(木) 02:44
「武道」
4825年目:2000/10/26(木) 02:50
失礼しました。47 は書き込み失敗です。
「武道とは何か」言葉で表現するのは、
非常に難しいですね。
「生き死に」と「それが人生に生かせる」という
キーワードも出ていますが、
それならば軍人は要の東西を問わずそうですね。
皆生き死にに直面しているし、
軍事は人生にも生かせます。
(経営学なんか、殆ど軍事のコピーだと思います。)
私としては、もう少し精神的なもの、美学的なものも
重要な要素だと考えています。
「強く生き、強く死ぬためにはどうすればいいか?」
「美しく生き、美しく死ぬためにはどうすればいいか?」
それがテーマなのではないでしょうか?
そういう意味で言うと、器は必ずしも武技でなくてもよいのではと、
最近は考えるようになりました。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/26(木) 05:26
>>48
それだったら、ただの「道」。
50名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/26(木) 06:08
>>48
共感します。
>>49
武道も、沢山ある「ただの道」のひとつ、ということではダメなのかな?
5149:2000/10/26(木) 08:52
>>50
だからそれなら、はじめからただ「道」って言えばいいじゃん。
道の考え方としては>>48に同意するよ。
で、武を以って道を成すから武道になるのでは?
他にも例えば書を持って道を成したら書道とか。

道を極めると極道になってしまうのはなぜかしらん?
52古武道家(10年目):2000/10/26(木) 11:01
軍人であれば武道家であるかというと違うと思います。
#軍人がみな武道家である国は強いとは思いますが。

軍人が組織の一員として人間性を捨てていかなければならないのに対し、
武道を志す者はあくまでも1人の人間として自立し、
邪悪なものに屈しない知恵と力を鍛錬していくことが主であって、
そういう意味では1人のものです。組織の一員としての生き方とは
対極にあるものだと思います。
#もちろんそこから他者に対する思いやりや尊敬の念、
#天下国家を論じる発想が生まれてくるのですが。

極道>極めて道を外しているということではないでしょうか。

格闘技とはずれてきたのでsage
53二尺四寸五分:2000/10/26(木) 13:54
居合道の始祖、林崎甚助が残した

居合とは 人に斬られず 人斬らず 己を責めて 平らかな道
という道歌があります。

まさにこれではないでしょうか。
ものの本で、「武道」の「道」の字は「人道」の「道」であると
記されていたのを読みました。
武道には人間性を要求されると思います。
昔の先人達は命を賭ける局面を何度も切り抜けるうちに
「生」「死」という哲学的なものを素通りすることが出来なかったんでしょうね。
(でなけりゃただの殺戮者ですよね)
その中で考察された考え方は、現代社会にも通じると思います。
41さんのおっしゃる「残心」も
終わったと思っても気を抜かないという日常生活での心得だと思います。
54ななし太平:2000/10/27(金) 00:15
武道とは、武士道なのでしょうか?
だとすると、他レスの大和魂で書いてあった
「日本民族固有の精神。日本人としての意識。」
が、サムライスピリットなのかなという気もしてきます
55名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 01:47
寸止め空手からフルコンに行ったけども
あまりもの違いに愕然としたことがある(こんな事書くと荒れそうだけど・・)
はっきりいってパンチやキックってなかなか当たらない
これはTVでやってる空手の試合を見るとわかるだろうけど、クリーンヒットって本当に難しい
んでフルコンと平行して日本拳法もやり始めた(←今は専らこっちに燃えている。面白い!)
これもこれでカルチャーショック!投げの概念が入るともの凄い奥行きが広がっていく

鏡の前で何万回もチェックした蹴りも、優れた選手の前には簡単に拾われ、投げられる
なるほど拾えばいいのかと真似しようとすると打撃を入れられる。型だけでもきっと強くなれるのだろうけど
試合をするとやっぱりその分、視野が広がると思う。
初段も取れて、試合に出ると本当に上手い人がゴロゴロいる
そういう経験はきっと試合じゃないと得られないと思う

あくまで僕の意見なので、軽く聞き流してください
どこかにも書いてあるけど、試合制は武道の退化ではなく進歩だと思います
柔道の嘉納じごろう(?)もそういう信念の元、柔道をスポーツ化したと聞いています
立派な理念だと思います
56名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 01:59
日本拳法も馬鹿な指導者さえ居なくなれば良いんだけどね
57古武道家(10年目):2000/10/27(金) 11:22
>54
単に言葉の問題ですが武道と武士道とは同じ意味で使ってよいと思います。
ただ日本の心というのは武士道だけではないと思います。

前にも書きましたが武道は「人生とは戦いである」とするところから出発し、
戦いに処する心構え、知恵、技術を鍛錬していくものです。そのある意味
具体的な一人の武道の延長上に、一人の人生を賭けて事を成すことの使命感や
国家感が生まれてくるものです。その一人の武道の具体性をおろそかにして
一般化してしまうと、愛や宇宙、あるいは根性や超えろ限界という話になって
技術も(一緒に心も)廃れていってしまうのではないでしょうか。

>55
心を忘れなければ試合で得られるものも大きいと思いますよ。

でも柔道などの試合で勝ったときにガッツポーズ、
剣道の試合では外野が大きな歓声、
ここに武道の本質は微塵も感じられないですね。
あの勝った選手がニコニコしながら敗者に握手を求める様は
醜悪以外のなにものでもないですよ。
58古武道家(10年目):2000/10/27(金) 11:32
勝って寡黙、負けて毅然
TVなどで試合を観戦する際、武道家とそうではない者を見分けるのに
私が主に意識している点です。

#野球チームが優勝したときの喜びようなどはまさに
#「スポーツの醍醐味」ですね。あれはあれで大切なものだと思います。
59ハエ:2000/10/28(土) 01:31
>古武道家さん
>柔道などの試合で勝ったときにガッツポーズ
>あの勝った選手がニコニコしながら敗者に握手を求める様は
>醜悪以外のなにものでもないですよ

一応あれは、オリンピックや世界選手権などの国際ルールの時にやってるだけですよ〜
普通の講道館ルールではそういう事しません。(武道色が強い)
でもやっぱり良い勝負をした後。本当に苦しい勝負だったときは
握手やガッツポーズをしたくなると思います。

まあ古武道家さんの定義だから別に良いんですけどね・・・
しかし醜悪ってのは・・・へこむなぁ〜〜・・・
60名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 01:37
>ハエ
おい、元気出せよ
61ななし太平:2000/10/28(土) 02:22
>柔道などの試合で勝ったときにガッツポーズ
>あの勝った選手がニコニコしながら敗者に握手を求める様は
>醜悪以外のなにものでもないですよ

確かに、そうだと思います
前に、ぼくが誰もが知ってる競技に出た選手に負けた事があります
自分自信、負けた事でなく試合中に恐怖を感じた事に悔しさを感じました
それから、死ぬほどではないけど本気で練習しました
次にトーナメントであたった時、勝つ事が出来ました
その時、意識はしてなかったのですが、ガッツポーズや叫び声をあげて
しまいました。
後に、総帥から館長を通して「馬鹿者」と言われました
当時僕は、「一生懸命練習して恐怖を感じた相手から勝利を勝ち取った、
なにがいけない」
そう思ったのですが、今、格闘技でなく武道を目指す者として
なんて恥ずかしい事をしたと後悔しています
武道とは、こういう事ではないのでしょうか?
62ハエ:2000/10/28(土) 02:41
武道家としてやっちゃいけないってのはわかるんですけどね、
でも結局俺は柔道をスポーツとしてしか楽しんでなかったのかもしれない
やっぱり武道家がそれをすると醜悪に見えちゃうもんなんですね・・
俺なんか・・「あ〜、あ〜・・あんな喜んじゃって・・」
ぐらいにしか思わないんですけど

そういえば金メダル取った瀧本もガッツポーズの後、監督に怒られたそうなので
とりあえず納得です。そこまで恥じなくても・・とは思いますけど
63名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 02:53
>ハエ
まあまあ・・「醜悪」ってのは言葉のあやでしょ
まさか古武士さんだって瀧本のガッツポーズ見て
「醜悪な男だ。この男は武道家として最低の男だ」
だとまで思いませんって(笑)

それよか「武道」の発祥について語りましょうよ(←かなり強引)
武士道の話が出てましたけど、「武士道」の概念そのものは
江戸時代に生まれたわけですよね、戦国時代はそんな綺麗事なんか言ってる場合じゃない
(柔道の寝技だって、戦争中相手を投げ、脇差しで相手の首をかっ切るまでに
だいたい30秒だろう・・ということで現在のルールが生まれたと聞いています)
武道における日本的なものと書かれてますが、それは一体どのようなルーツがあるのか?
こういう議論がしたいです。
64ななし太平:2000/10/28(土) 02:58
>ハエさん
武道家としてやろうと思ったばかりのぼくが言うのもなんだけど
人間とし感情をストレートに出しただけだよ
いっぱいいっぱいで勝利をとったんだもの
当たり前の事
ただ、武道家は心に余裕がなければいけないんだろうね
でも、これが、難しいよね
65ハエ:2000/10/28(土) 03:03
>63
いやいや、面目ないです・・
>柔道の寝技だって戦争中相手を投げ、
>脇差しで相手の首をかっ切るまでに
>だいたい30秒だろう・・
>ということで現在のルールが生まれたと聞いています

とありましたが、うちの顧問も同じ事を言ってましたね
戦国時代、戦争中刀が折れると、そこら辺の死骸から刀を引っこ抜くか
ちっちゃい刀?一本で戦うことを余儀なくされる
その場合相手を転ばせその小刀で頸動脈を切る・・・この戦術が
柔術の元だと言ってました。当時は乱取りとかじゃなくて、藁葺き相手に
打ち込みをするだけの訓練法だったそうです。

あくまで「柔術」というのは戦闘要員のたしなみの一つにしか過ぎず
今の柔道の理念自体は江戸時代〜明治期にかけて作られたそうです
それもほとんど「剣道場」からきたものなので、オリジナリティは
ないかもしれません。あんまり詳しくないので間違えてたらつっこんでください

むしろ興味があるのは空手ですよね
発祥は沖縄(?)だったら、独自の理念を持っているのでは?
66ハエ:2000/10/28(土) 03:04
>ななし太平さん
変にごねちゃってゴメンね・・・
俺もそう思います

いやいやお恥ずかしい・・
67名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 03:10
江戸時代の「柔術教室」ってどんなだったの?
知ってる人教えて欲しいです
68ハエ:2000/10/28(土) 03:31
>67
これもウチの信用ならない顧問から聞いた話なので
話30%で聞いてください(^^;

やっぱり当時、柔術というのはマイナーだったそうで(メインはやっぱり剣)
そんな道場を開くのは一風変わった人が多かったそうです。
それでも向上心のある人は、剣道場とかけもちで通っていて
そのへんから普及していったのかな?・・ということらしいのですが
あんまり信じないでね
69名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 06:09
江戸期の関口新心流は藩主から「柔は武芸の母である」って言葉を貰っています。
場所や流派によるんではないでしょうか?
70:2000/10/28(土) 20:50
実際にいわゆる武士道というものの原形が生まれたのはサムライからではないと思っています。
当時の戦の最前線で戦うのは、いつも一番身分の低い捨て駒であり、(今の戦争も同じですが)
借金を地主から背負って首がまわらなくなったものや、他の事情で金がいるもの、
あるいは罪を軽減するという条件で参加しているもの、山賊などからはみだしたもの、
城を追い出されて生活できなくなった元武士(これは一応サムライかも知れません)などが
主だったからです。基本的に刀による殺し合いですから、相手も必死です。ほとんど
無傷で済まなかったはずです。(マンガのようなヒーローはいないはず)そういう
不特定多数の無名の死んでいった人間の間から口伝えで武士道の基本になる哲学のようなものが
生まれたものだと考えます。一番卑しい身分のものたちが死への恐怖から身を削って自分に覚悟を
させるために生まれたのが武士道だと思うのです。それを城勤めの役人である
武士たちが参考というか社訓のようなものにしたんだと思います。(統率を美に置き換えたわけです)
ナチスのようなものですね。(言い過ぎかもしれませんが)そこから、日本が平和に
なってゆくにつれ人殺しが必要なくなる(戦がない)状態になってから城の役人たちと道場の間、
あるいは文化人との間で『道』という総称的な概念として文化へと昇華していったんだと思います。

71:2000/10/29(日) 05:18
理論的なものが格闘技で、それを捨てたものが武道のような気がしています。

つってすいません、何か自分の世界に入ってしまって。。自らage
72名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/29(日) 05:53
ただ、日本には格闘技スポーツを楽しむって言う概念がなかったでけで
精神論云々は、有るかも知れないけど、武道も格闘技も同じゃないの?
combat sportsを格闘技と訳すか武道と訳すかの違いだけでしょ
精神論(相手を敬う等)云々は、パリジャンレスリングとかサバットなんかにも有るし。

哲学・処世術的な武士道と武道を結び付けるのはちょっと違うんじゃないかな?
73名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/31(火) 02:56
age
74名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 00:30
age
75宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 01:43
>>72さん
単純考えてくださいね。
剣道は武道だよね。あれは格闘技かい?
弓道は武道だよね。あれは格闘技かい?

ってこんなのどっかで見たような気もするが。
要するに武道ってものに対する認識が不足してるか偏ってるんじゃない
のかなあ、格闘技=武道って考える人は。
76名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 01:46
あ、ウサぴょんだ
やっぱポイントは「生死」?
77名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 02:02
技術追求によって得られる人間的な成長が第一義=格闘技
理念追求によって得られる人間的な成長が第一義=武道

既出だけどこれでいいんじゃない?
これ以上でもこれ以下でも無いと思います
78名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 02:08
>>77
だからその理念のルーツがどこにあるのか語り合ってるんだよ
どうも武士道とは密接に関わり合ってるんだろうけど
武士道=武道とも簡単にはくくれない・・そういう流れでしょ?
79宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 02:11
いやいや、簡単に考えて「格闘」するのが格闘技ってことでしょ。
格闘する技術じゃないのは格闘技じゃないの。
ついでに言うと合気道は格闘はしないから、格闘技じゃないよ。
格闘になってしまうのは下手くそだから格闘になってしまうだけや
からね。
8072:2000/11/01(水) 02:14
>>75さん
私の考えでは、スポーツ=余暇を楽しみ、かつ体を鍛え集団での礼節を学ぶもの
捕らえているので、剣道も弓道もスポーツ(格闘技?)です。
武道に対して認識不足と言われてしまっては、それまでですが…

『キックはスポーツで空手は武道なの?』スレにも書いたのですが、
武道は、概念だけが残っているだけで、日本人の侍に対する憧れのような物。
なのではなないのでしょうか?
81名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 02:41
>79
>格闘になってしまうのは下手くそだから格闘になってしまうだけや
からね。

う〜〜〜ん・・ウサぴょんは鼻につく言い方をしますね〜・・
武道にも格闘技術はあるでしょう。武道場で格闘したこと無いんですか?
82名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 02:47
まあ武道もスポーツも行き着くところは一緒なのでは?
アプローチの仕方が違うと言うだけの話で・・
スポーツマンシップだって最終的目標は人格形成というか、
人間的な成長ですからね

「格闘技」という言葉の定義はウサぴょんの解釈でよろしいのではないかと・・
83宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 02:48
>>81さん
眠ろうとしてたけど、ちょっと。
僕の言ってるのは合気道の話。
合気道は武道だけど格闘技ではないと言うこと。
そりゃあ、格闘をする武道もあるでしょうけど、格闘をしない武道も
あるんだから、そういうところをきっちり分けて話をしましょうと
いうことです。

じゃ、おやすみ〜
84名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 03:08
>83
>下手くそだから格闘になってしまうだけやからね

なんにせよこの発言は安易。「合気道は格闘しない
格闘することを信条としない」と書けばいいものを
へたくそ呼ばわりだからな・・

っていうか合気道って格闘しないの?
昔TVで植芝とかいう人の演舞見たけど
あれは格闘のような気が・・・
85宇讃ファン:2000/11/01(水) 03:12
>84
彼の味と言うことで許してあげてください
お願いします
86名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 03:16
>81
宇讃久斎のコメントで腹立てる様ではまだまだ半人前だな
かくいう俺も最初はカチンときてたけど、今じゃもう慣れたよ
>>83の苦しいコメントも彼の味。ギャグとしてみれなきゃ駄目だよ
87『道をきわめる』or『単なる勝負』??:2000/11/01(水) 03:44
オリンピック柔道特設掲示板より

ドゥイエは今、なにを思うか。


当局が誤審だと認めたのはいいが、
篠原選手が「投げてない」というのは、誤審に更に誤った判断を塗り重ねたものだ。

ドゥイエはこの判断をどう見るのだろう。
反則も含めて、彼は最後の最後となる試合で結局『柔道家』であることを自ら捨てたのだ。

哀れドゥイエ。
金メダルは本当は彼のものではないという寂しさに
フランス人は気付かないのか。

http://www.judo-jp.org/cgi-bin/olympic/custombbs.cgi
88古武道家(10年目):2000/11/01(水) 11:21
武道と武士道について個人的な見解を述べさせてもらいますと…
言葉自体の意味は時代時代で変わってくるので大した意味はないんですが、
武士道というのは武士の生きる道であり、武士とは戦いに生きる者だと思います。
そういう意味で武道と武士道は同じものを指してよいと思っています。
しかし武士道という方が日本の時代背景を感じさせる分、具体的なイメージが
沸いてきますので、武道よりは狭義かもしれないですね。

武士道の起こりは大筋で>>70で卍さんが書かれているように、
原始的な戦いの哲学が(言葉は悪いですが)政治的なものに利用されて
封建的な要素が強くなったんだと思います。

しかし武士道を処世術と見る見方も少々穿っている気がします。
まとまりのつかないまま、つづくかも。

>82
武道の目標は「人格形成」ではないと思います。
あくまでも根底には戦いがあります。
89宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 11:39
>なんにせよこの発言は安易。

あんたのほうが安易やって。あんたの言葉のとおり、
「合気道は格闘しない格闘することを信条としない」
としてもや。信条を貫けないのは下手くそやからやろう。

>っていうか合気道って格闘しないの?
>昔TVで植芝とかいう人の演舞見たけど
>あれは格闘のような気が・・・

なんで演舞が格闘やねん。演舞やったら踊りやろう。
それやったらあんた時代劇見て、殺陣を格闘というんやないか?
まあ、あんたと僕の格闘の意味が違いすぎるわ。
90宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 11:40
>>86さん
>83の苦しいコメントも彼の味。ギャグとしてみれなきゃ駄目だよ
何が苦しい?もっと格闘という言葉の意味を考えなさい。
たとえば男が女に暴力をふるうとする。女が無抵抗にボコボコにやられるのは格闘ではないわな。
女が抵抗してそれが効力を発揮してはじめて格闘という状態になるんとちゃうか?
武術武道は一撃必殺を追求する形で進化してきたもんや。柔術でもそうなんやで。
戦場で格闘なんかやってたら、周りの奴に殺されるかも知れへんからな。
それを「試合」というもんがどんどん破壊してきた。
しかし講道館柔道でも普及当時他流との試合は1時間とかそんなくらいの時間が掛かってる。
1時間も動きつづけるわけがないから、そのほとんどは睨み合いやったということや。
一撃必殺ということは勝機を見出すまで勝負には出ないということでもある。中途半端な攻撃なん
ぞは出来ないもんや。今の試合は攻撃せんかったらポイントで不利になるからなんでもかんでも
手を出していかんとあかんからなあ。
そんな中でもまだまだ一撃必殺の追求は行われてきたし、だから日本には格技という言葉はあっ
ても格闘技という言葉はなかった。
格闘技という言葉は武術武道を「見せる」ことによって飯のタネにしようとした、一部の武術とマス
コミの作った「造語」やねんで。なんでそんな造語の範疇で武術武道が語れるんや。
「見せて」金を取るには観客が必要。客の喜ぶ戦い方やルールも必要。
客は格闘の末の勝負の決着を望んでいるんや。ベストバウトちゅうのがどんなんか考えてみ。
91通りすがりの柔道家:2000/11/01(水) 17:35
>>90
う〜〜ん・・試合を貶されると少し悲しいですね
「合気道という武道では、格闘に至るまでに相手を制するのを信条とするから・・」
ぐらいの書き方をすれば誤解を招かずに済んだのでは?

特に柔道の場合は、開祖が理念の一つに殺人技術を排除することを打ち上げた経緯があります
危険な当て身を廃止し競技のなかで切磋琢磨する、当時としては新しい理念です(西村武彦などの影響を受けたそうですが・・)
この形式を武道として認めてもらえないならば返す言葉もありませんが・・
92名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 17:43
当時も体育化として試合の重要性を説く嘉納治五郎と
試合によって本来の心を失うのを恐れた柔術家で議論があったらしいが
いま現代にもこのような争いが・・・
93名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 17:43
宇讃久斎スレッドの160番辺りを読んでいただけると氏の立場がわかると思うのですが。
94宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 17:48
>>91さん
別に貶しているのではないでしょう。
もっと柔道の勢力善用自他共栄の理念に自信を持てば?
合気道だって絶対平和追求の道ですよ。
僕は格闘技と武術あるいは武道の違いについて語っているのであって、
優劣を語っているのではない。
みんなそれぞれの価値観で自分の道を自信を持って進めばいいのでは
ないですか?
誤解なんてのは誤解したい心が誤解を招くんですよ。
95通りすがりの柔道家:2000/11/01(水) 17:51
>92
あ、いや、結構仲が良かったそうですよ
技術交流として多数の柔術家が講道館に招かれたそうです
嘉納自身も「人を殺むる境地に達したくば柔術をせよ」とのコメントを残しています

う〜〜ん・・思えばやはり柔道は武道ではなくスポーツなのかもしれませんね
それこそが開祖の願いだったわけだし・・
96宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 17:54
>>94
すみません。
勢力→精力
でした。
97名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 17:54
武術と格闘技と格闘競技はやっぱ別のものだと思うけど
「道」という概念は全てに生まれうると思います。
98通りすがりの柔道家:2000/11/01(水) 18:10
>>94
あはは・・こっちが忠告するつもりが逆に忠告を受けてしまった
でもその通りですね、肝に銘じます

まあでもやはり「格闘になるのはへたくそ」と言えば
格闘技をやってらっしゃる方に反感を買うでしょうし
(それが狙いなら失礼・・^^)
多くの武道は一撃必殺は理想としても「格闘」の練習に多くの時間を費やしています
その方達の心情を察するならば、前置きは必要だったと思いますよ
いらぬお世話かもしれないけども「自他共栄」の精神がうずいてしまったので(笑
では失敬!
99名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 18:20
>95
嘉納治五郎はこうも言ってるぞ

「『柔術』は、ただ勝敗を主眼とする武技。
 『柔道』は、勝敗の理(ことわり=道理)を討究して原理の発見、これを術に及ぼし、この道を以て、心を修養する法」

いや、だから何って言われると困るけど、このスレの参考になればなぁ〜・・と
押忍!フォロー感謝ス!
100名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/01(水) 18:25
高嶋政宏を思い出すなぁ・・
101宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 18:28
>>98さん
>まあでもやはり「格闘になるのはへたくそ」と言えば
>格闘技をやってらっしゃる方に反感を買うでしょうし
>(それが狙いなら失礼・・^^)

ははは、狙っているってことはないんよ。
僕は合気道の話として言うてるんやからね。
合気道は格闘になったら負けますよ。
格闘をやってる人はそれに自信をもてばいいし、合気道の人は格闘に
ならないように修練を積めばよろしい。
簡単にこんな言葉に反発するようでは、それこそ武道を修行する者で
はないということでしょう。

102新婚さん万歳:2000/11/01(水) 19:06
ここでいう格闘は吉野愛氣塾でいう「格闘」なので、そこんとこよろしく。
103宇讃久斎@HAJIME:2000/11/01(水) 20:32
>>102さん
間違わずに吉野愛氣塾と書いてくれてありがとう。
あんたはエライ!!!
104名無し大平:2000/11/02(木) 01:06
ついこの間、私の流派のトップの方とお話する機会がありました
「本当の達人とは、危険なとこに近づかないものだ」
と言われてました
格闘技と武道のちがいはここにあるような気がします
105名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/02(木) 01:17
じゃあ、ひきこもりが最高の武道ということで。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/02(木) 02:56
宮本武蔵も晩年は仇討ちを恐れて孤独にひきこもってたもんね。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/02(木) 03:07
>合気道は格闘になったら負けますよ。

どんな武道でも相手に攻撃させず自分のみの攻撃つまり
格闘になることなしに相手を屠ることが理想であり、
合気道はその理想を追求することのみに特化した、ある
意味とても高尚な武道なわけですね。
高尚すぎて、ものにするにはそうとうな修練が必要そう。
手っ取り早く喧嘩が強くなりたい君には稽古は耐えられ
そうにないですね。

私は他の武道ですが、地道に稽古していつかこの域にまで
達してみたいものです。
108名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/02(木) 03:52
107っす。自己フォロー
>手っ取り早く喧嘩が強くなりたい君には

喧嘩が強くなりたいクン、と読んでください。
キミ(=宇讃さん)という意味ではないので。すみません。
109宇讃久斎@HAJIME:2000/11/02(木) 11:34
>>107さん
>合気道はその理想を追求することのみに特化した、ある
>意味とても高尚な武道なわけですね。
>高尚すぎて、ものにするにはそうとうな修練が必要そう。

まあ、合気道の理想は殺すことの出来る力を生かすことに転化することだと考えて
いますので、その点は誤解のないように付け加えておきます。
高尚云々につきましてはやはりその人その人の価値観の問題ですから。
当然僕はそれを高尚であると思うから、そういう武道をやっているんですが。

相当な修練というのも他武道と比較してどうとも言えませんよ。僕は近道と考えて
いますが、基本的な武術の心得がなければ理屈のみのものになってしまいます。
合気道の問題は武術の基本部分を疎かにする傾向があるということだと思います。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/02(木) 11:57
宇讃氏ってけっこうまともだったんだ。誤解してた。

合気道だけを学んで喧嘩に強くなろうなどとは考えてはいけ
ないことはよーく分かった。でも、武道として合気道は間違
っていないこともよーく分かった。ありがとう。
ぼくは107じゃないけどね。

でも、宇讃氏の言うことが正しいとするならば、なんか勘違
いしている合気道家(とくに学生の)はかなり多くないか?
111宇讃久斎@HAJIME
>>110さん
>宇讃氏ってけっこうまともだったんだ。誤解してた。
どうもありがとう。紛らわしい書き方をするので仕方がないですが。

>なんか勘違いしている合気道家(とくに学生の)はかなり多くないか?
個人的な経験と多くの先生方の話を聞いた限りでは、だいたい30歳こえる
くらいまではわかりにくいようです。
体力的な衰えを痛感して、なにかに気づいたとか考え方を変えたという方も
多いです。
僕の場合はそこから合気道をはじめましたから、最初から力なんか使おうと
思ってなっかたし、喧嘩に使うなんてことも考えずに済みました。