314 :
257:
やっと書き写せた。
>>287-291の続き。
【伊沢山中の修行】
ところが、ここでの修行というのが頗る変わっていて、武術についてなに一つ指導
してくれない。初めて泊まった翌る日、午前の十一時ごろ爺さんに呼ばれた。
『何を持って来い、ついでに何を、な』という。何のことかわからないから、
『何でございましょう?」と、訊くと、『馬鹿者め!』と怒鳴りつけられた。
『お前は稽古に来たんじゃない、仕上げの修行に来たのだ。武道の最高の教えは、
見えない世界を見、聞えない世界を聞くところに本当の修行がある。
そんなことくらいわからんでどうする!』と、又どなりつけられた。
その次の日に呼ばれると、また『何を持って来い、ついでに何を、な』である。
そこで私は考えた。そこは山の中だから、新聞が十一時ごろ来る、『何を』というのは
新聞のことだ、『ついでに何を』というのは眼鏡のことだろうと思って、その二品を届けると、
爺さんは黙って受取った。万事がこの調子だった。数日たった或日『今日は天気もいいし
気持ちもいい。幸い殿様(もとの水戸藩主徳川篤敬候)がお帰りになっているというから、
御機嫌奉伺に行ってくるぞ。何をしておけ、何を!』。
さアわからない、まごまごしていると、爺さんの姪で、家事手伝いに来ていた十七、八に
なる娘が、草履と籐のステッキを揃えてくれた。ところが、その品物が違っていたらしい。
玄関に出てきた爺さん、またカミナリである。『馬鹿者めェ、今日は面白くないから、やめ
にする。二人共、ちょっと来い』
『どうもすみませんでした』と私。
『お前は、なぜあやまる。そんなのは伊達の情けというものだ』。
姪が、あやまると、『またお前も、なぜ余計なことをするんだ。二人でお互いの修行の
邪魔をしているじゃないか』と、その日は大そう不機嫌だった。それから又、ニ〜三日
たつと、『殿様が東京へおたちにならんうち、ちょっと行って来よう。何をしておけ、
何をなァ』。この前は草履で失敗だったから下駄、籐の代わりに弓のステッキを出して
おくと、こんどは何の文句もなく、玄関を出かけた。
315 :
257:2009/01/31(土) 11:27:49 ID:AS7zWEik0
それからある日、例によって、『今日は天気がうららかだから、何に行こう。何をしておけ、
何を何をな。何は何におるぞ。それから何と何だぞ』。さあ、五つも用があるぞ。
今日は天気がいいというから、そうだ釣りだ。何と何は、天気で減水しているので、
長い釣竿と短い釣竿を用意せよ、ということだろう。何は何におるぞ、というから、井戸端を
掘ったらミミズがぞくぞく出て来た。後の何と何は、弁当と腰かけだろう、と五つ品を用意した。
『用意が出来ました』といったら、『何はどうした、何は』『はッ、只今』馬のことだ。
あわてて厩にとんで行ったが、馬のやつあばれて轡をはめさせない。ようやく轡をかま
せたが、爺さんのいらいらした顔が目にうつるので、鞍をつける暇がなく、裸馬のまま
ひっぱって行った。『まことに失礼ですが、こういう機会に裸馬を乗りこなす術をお教え
戴きたいと思いまして』とやった。爺さん、言葉の裏が分かっているのだが、この機転が
気にいったのか、よしよしと裸馬で出かけた。
それからまた或る日、『今日は烏山に行ってくる。今日は帰って来るまでに大変だぞ、
だから何をしておけ』という。大変だ、大変だといって何だろう、とひょいと空を見ると
東の空に雷雲が出ている。午後二時頃になると、盆を覆すような雷雨がやって来た。
バラバラっと来たので、爺さんが大事にしている鉢植の盆栽を急いで物置に入れた。
この中に、爺さんが十六の時、実生で植えたという樹齢六十年の枝ぶりのいい松がある。
これは雨に打たせなければならない。が直接強雨に打たせると、根本の奇岩奇石、それ
に生えているこけが流れてしまう。その部分だけ急いでボロをまいて雨に出しておいた。
316 :
257:2009/01/31(土) 11:29:40 ID:AS7zWEik0
雨が上がったと思ったら馬の蹄が聞えて来た。『お帰りい』と下男が馬の方へとんで行くと、
『今日は久し振りにお客さんをお連れ申した。何をしておけ』と上がって来た。中庭に面した
座敷へ客人を通し、酒を用意して客間へ行くと、馬鹿者めッ、と大喝一声を食らった。盆栽に
かけたボロを取りのぞくのを忘れたのを見つかったのだ。客人は又、苔の上にボロをかけた
のを見て感心している。『いや、この人は実によく気がつく、あんたが小言をいうのは無理だ』
『何をおっしゃる。俺が預かった弟子だ。煮て食おうと焼いて食おうと俺の勝手だ』。途中で
一杯やって来たらしい。『それはまた無茶なことを・・・』『無茶であろうと、なかろうとあなたの
知ったことではない。文句があるなら表へ出ろ』『よし出よう』
爺さんが長押にある真槍を二挺取り出すと二人は裸足のまま庭へ飛び下りた。『さあ来い』
『おおッ』大変なことになってしまった。おろおろする私を尻目に、隙あらば、と穂先がキラリ
キラリと夏の陽を不気味にはね返す。その瞬間、槍がはげしくからみ合ったかと思うと、客人
の槍がばたりと落とされてしまった。やあーッという気合一声、爺さんの槍が客人の心臓をぐさり、
と思う間髪でぴたりと止まった。『はははは』。どちらからともなく大声で笑い出した。こちらは笑う
どころじゃない。生きた心地もない私をふりかえった爺さん、『分かったか。今の真剣勝負はお前
に見せるためにやったのだ』とは肝を冷やす指南であった。
こうして講談本にでも出て来るような風変わりな山中一ヵ年の修行は終わった。
317 :
257:2009/01/31(土) 11:30:28 ID:AS7zWEik0
【婿入り試合】
その後、私は上京して向島に真庭念流の道場を構えている栖原鉄舟先生について、
三年半の修行をした。この間にも時々、佐々木先生のところへ仕上げに出かけ、剣術、
槍術、体術、棒術、鎖鎌術について、免許皆伝を受けた。その後、国学者の今泉定助
先生の門下となって、先生の主催する日本皇祭会の道場をあずかるようになった。
今泉先生の高弟に、小谷文斎という国学者があって、私とは大いに意気投合した。
昭和五年の正月末、小谷氏が帰省するとき、郷里の大阪府南河内群平尾村の近くに
南朝の遺臣という家柄で、管槍をつかう郷士がいるから、他流試合を試み傍々、行って
みないかというので一緒に出かけていったことがある。
南朝の遺臣という戸田顕光氏の家は、この辺の大地主で、当主は四十五、六歳の
温厚な人、客間に招じられるとお茶を運んで現れた十八、九の美人があった。美保
さんという一人娘で、薙刀の達人とのことである。そろそろ婿を、という年頃だが、
武道の家なので、娘と試合をして勝った者を婿に迎えよう、という甚だ時代がかった
話である。
何しろ教養はあり妙齢の美人で、大資本家というのだから『我こそは・・・』とばかり
大ぜいの青年が、試合を申込んでくるが、ことごとく美保嬢の薙刀に叩き伏せられた。
ただ一人、高橋某という青年が、一度互角の試合をしているという。
『国井どうだ、婿養子の一番、立ち会ってみないか』小谷氏がいうので、私も大いに
興をひかれ、戸田氏に希望をもらした。『いや、とてもお相手など出来る娘ではあり
ませぬ』と、謙遜されていたが、小谷氏からのすすめもあって、令嬢に仕度をさせた。
318 :
257:2009/01/31(土) 11:32:07 ID:AS7zWEik0
道場に出ると、美保嬢は、袴に襷鉢巻、凛々しい装いで薙刀をとって待っている。
私は稽古用の管槍を借り、管をとって素槍にした。一礼して美保女は青眼、私は
入身下段につけ、双方ジリジリッと詰め寄ったが、構えは完璧で、さすが女ながら
相当の腕前だが、やはり気合負けというのであろう、私が次第に押してゆくと、一歩
二歩と退りながら、構えにあせりがみえてきた。私は、すかさず、その構えを崩す
ために、『とう!』と、胴を突いて出れば、美保嬢は、それを切払らって左霞から
踏込んで面を切ってくる。私はサッと槍を引いて、薙刀が下段に下がる寸前、
突く代わりに穂先でピタリと美保嬢の肩口を押えた。
『参りました』
『もう一本、いかが?』
『いいえ、とても』
美保嬢はポッと頬を染めてひき下がった。これですめば文句はなかったが、この時
来合わせていた花婿候補第一号の高橋某と立会いをするという羽目に陥った。高橋
氏の美保嬢への傾きから察して、悪い結果にならなければいいが、と槍を取っての
立会いとなったが、私は、程よい所で、参った、と槍を引いた。ところが勝負いかにと
固唾をのんでいた美保嬢から異議が出た。
『只今の勝負は、国井様の勝ちでありますのに、いかなる理由で負けと申されるの
ですか』。なるほど、高橋氏は貫流の槍を取り、私は貫流の管を抜いて素槍として
の試合で、高橋氏がやっと突き出して来たのを、外して突きかえした。相手の槍は、
管があるので、突きよりはしめ七分といわれる槍としては、手の裏をしめても柄が
しまらぬために、これが二間の長さで突いたら、敵の急所を狙ってもそれることは
必定である。高橋氏の突きに参った、といった勝負を、彼女はここまで鋭く見きわ
めていたわけである。さあこうなるとなんとも言いのがれに困る。
『いや、その点は貫流の槍が悪いので、もし高橋氏が素槍で来られたら、あの突き
の鋭さには到底うち勝てません』と冷汗をかいた。それ以上美保嬢も追及して来な
かったから、高橋氏のためにホッと胸をなでおろしたが、この試合に、思わぬ美保
嬢の熱い視線を感じて、独身の私はあやしく血のさわぐ思いがした。
319 :
257:2009/01/31(土) 11:33:40 ID:AS7zWEik0
【念仏寺の騒動】
大阪滞在中、偶然にも一つの事件に出会った。小谷氏も檀家の一つになっている
融通念仏宗の総本山、住吉区平野町の大念仏寺に、管長排斥の大争議が起こっていた。
何でも管長は島原遊郭の若後家を可愛がり、寺宝となっている後白河天皇の御宸翰まで
売りとばして入れ上げたとかで、排斥派と擁護派が対立し、えらい騒ぎになっていた。
そして管長派は、地元の新聞ゴロに金をバラまき、排斥派が逆に押されているというので、
小谷氏は大憤慨である。『けしからん坊主を、一つ、とっちめに行こうではないか』ということに
なって、大念仏寺に乗込んだ。
南北朝以前の建立で、末寺三百六十余を有する総本山だけに、境内の大堂伽藍は壮麗目を
あざむくばかりだが、あちらこちらに一団の人々が群れて、何となく不穏の空気がただよっている。
これでは管長に面会などむつかしいのではないかと思ったが、今泉門下第一の弁舌家である小谷
先生、小一時間ほどねばったすえ、何と寺僧を説伏したのか、五分間だけ管長が会うということになった。
私たちは幾つもの渡り廊下を通って、奥の院に案内された。管長は五十過ぎの脂ぎった坊主で、
二枚重ねの座布団の上に、如意を右手に、むつかしい顔をして控えている。左右には肩をいから
した壮漢が、五〜六人、食いつくような眼をしていた。
320 :
257:2009/01/31(土) 11:34:34 ID:AS7zWEik0
しかし小谷氏は、私の護衛があるので落着き払ったもの。滔々と管長の非行をまくしたてて
『管長いかにして責任をとるのか』と、きめつけた。管長グウの音も出ない。結局、『返事は
三日間待ってくれ』とのことで、私たちはその席を立った。渡り廊下に出ると、後から荒々しい
足音が近づいて、『待て!』眼を血走らした背広の男が、『貴様ら、管長を侮辱したな!』と、
いきなり小谷氏に掴みかかろうとしたから、私はグッとその前に腕を突き出して、『腕力なら
オレが相手だ』『生意気な、オレは柔道四段だぞ!』いきなり拳骨で、顔を殴ってきた。咄嗟に
私は左手で受け、手首を引っ掴むと、腰をひねって一本背負をかけた。これが見事に決まって、
自称柔道四段は、渡り廊下の手摺りをとび越して、氷の張った泉水の中へ、水音も高くとび込んだ。
と、サッとうしろの障子が開いて、三人の男が、わっと掛かってきた。狭い廊下なので、利は
こちらにあった。しかも誂えむきに泉水は廊下の真下にある。三人の男は次つぎに真冬の水浴と
あわれをきわめた。四人の用心棒が片付くと、再び管長の部屋へ戻って、『管長、これはあなたの
指図か』と、小谷氏が食ってかかった。管長はそれから三日の後ついに辞任を声明してさしもの
問題もきれいに解決した。
【街の暴力と闘う】
戦後、何々組という暴力団や博徒の親分は全国的に手入れされたが、大正末から昭和初期の頃、
こういう連中の跳梁はなかなかはげしかった。中には官憲を抱き込んで、善良な市民は泣き寝入り
以外に方法がないという場合さえ度々あった。大正十五年の十一月、千住の岩間某という人の家族
が、今泉先生のところへ泣き込んできて、『主人が暴力団に監禁されて殺されそうですから、助けて
下さい』と、いう。先生が『国井、行け』というので、出かけていった。道々、話をきくと、岩間某が、
片柳組という土建屋にたのんで、映画館をこしらえた。中途で金が足りなくなったので、岩間は工事を
中止しようとしたが、片柳組では、映画館が出来上がったら、それを担保にして金を借りてやるからと
いって、完成させた。ところが片柳組は下心があって、工事費の不足は五千円だが、一万円と吹きか
けて、差額の五千円は他に流用したかったのである。
321 :
257:2009/01/31(土) 11:35:37 ID:AS7zWEik0
ところが金貸しの方では、一万円なんかとても返せないといって金を出さない。実は間に入っている
鈴カンこと鈴木勘蔵という博徒の親分を怖がって、誰も金を貸さないのであった。そこで建築は出来上が
ったが、五千円のアナがあいた。片柳組では、これまでの行きがかりを一切無視して、岩間に早くその金
を払えとせめたて、殴る蹴るの暴行をはたらいた上、身柄を鈴カンの家に監禁し、家族の者には金を作って
来ぬうちは、岩間を人質にしておいて帰さぬということだった。
私は、鈴カンの家に直談判に行った。通された八畳の居間に、五十がらみの目付きの鋭い大柄な男が
タバコを吸っていた。鈴カンだ。右手の小机の上にはピストルがおいてあった。私が岩間に対する不法を
詰問すると、『岩間は約束不履行で監禁してあるのだ。返してもらいたければ、金を持ってこい』。鈴カンは
最初から、横柄な態度である。言葉のあらそいをしているうちに、十四〜五人子分たちがぞろぞろと現われ、
私の周囲をずらりと取巻いた。短刀などをチラつかせている者もあって、『野郎、やっちまえ』と、今にも飛び
かかって来そうな気勢である。私は身に寸鉄も帯びていなかった。咄嗟に懐に手を入れて、『ぶッ放すぞッ』と、
鈴カンに狙いをつけた。先手を打ったので、鈴カンもピストルに手を出す隙がない。そのひるむ瞬間、私は机の
上の本モノのピストルをサッと奪ってしまった。喧嘩は頓智である。
322 :
257:2009/01/31(土) 11:37:27 ID:AS7zWEik0
私はそのままピストルを子分の者たちにグルッと向けると『まァ、待ってくれ』というわけだ。
『じゃァ、岩間を返すか』
『明日帰すから、夕方五時に来てくれ』
『よし、じゃア、ピストルはそれまで預かっておく』
私は戸外に出ると、子分たちの見ている前で、ピストルをドブの溝の中に叩きこんだ。
次の日は、ただ事ではすまぬと思ったので、私は自転車のチェーンを懐に忍ばせて
出かけた。千住大橋を渡り、西新井橋の方に向かう土堤を二町ほど行くと、土堤の
両側から、前から十二、三人、後ろから二十人くらい、短刀や棍棒を持った喧嘩仕度
の男が、バラバラと現われて、私を取り巻いた。『来いッ』私はチェーンを振りまわして、
七〜八人を殴り倒したが、そのうち手の脂でチェーンを飛ばしてしまった。素手で、この
大勢を相手にしていては分がわるい。私は土堤の下にかけおりて逃げ出した。
すると、石が雨霰と飛んでくる。やつらは石をバケツに入れて用意しておいたとみえ、まるで
石のスコールだ。私は羽織を頭から被って逃げたが、二陣、三陣と、逃げる方向にも伏兵が
あって、石の数はいよいよ烈しくなる。逃れる道なし、と思って私は死んだふりをして、その場に
転がった。すると、大勢が集まってきて、『この野郎』『いいザマだ』とか、勝手なことをいいながら、
蹴る、殴るの始末である。
323 :
257:2009/01/31(土) 11:39:49 ID:AS7zWEik0
私はグッと体を固くして、我慢していた。そのうちに皆、居なくなったので、そっと起き上り、戻って
行こうとすると、大橋の橋の袂で鈴カンにバッタリ出会った。子分を十人ばかり後ろに連れていた。
『あッ、野郎、まだ生きてたのか』と、驚いた様子である。『卑怯な真似はよせ、一騎打ちで来い!』
『よしッ』 鈴カンは、隠し持った短刀で、いきなり突いてきた。サッとかわすと、力余った鈴カンの短刀、
ぐきっと橋の欄干を突き刺してしまった。その瞬間、私の脚が彼の脇腹をはげしく蹴込んだ。鈴カンは、
ううーと体を折ってそのまま気絶した。『あッ、親分を殺りやがった』と、子分たちが一せいに掛かってくる
のを、たちまち七〜八人に当身を食わせて、残った二〜三人に、『親分は死んだんじゃないから、手当て
してやれ。明日会いに行くから、息を吹き返したらそう云っておけ』といって私は帰ってきた。
三日目、私が出かけて行くと、先方の態度はガラリと変わっていた。鈴カンは私に蹴込まれたのが
相当に利いたらしく、寝床についていたが、私が行くと起き上って、『こういうザマで失礼だが、お前さん
の度胸と腕ッ節には感服した。岩間は返すから、一つオレの方の仲間に来て、青年たちを指導してくれ
ないか』。昨日とは打って変わったヤクザ流のインギンぶりだ。『冗談じゃない、若い者をおれが指導したら、
バクチなどは許さない。君は遊び人をやめて、工場で働かなきゃならぬぞ。従って、子分などというものは
一人も居なくなるだろう』。『それでもよい』。これは少々臭いと思った。が、先方がそういうなら、私も条件を
受けなければならない。『それじゃァ、今日は目出度い固めをしよう』。鈴カンは、子分に酒宴の用意を命じた。
324 :
257:2009/01/31(土) 11:58:17 ID:IuKbnQUT0
別室の大広間に、どんどん酒や料理が運ばれ、何人かの子分が鈴カンの両側にずらりとならぶ。
私は親分と向き合って座った。岩間が解放されて、私の横の席についた。『ちょっと・・・』と止められ、
私が口をつけたのを、鈴カンが飲み、三々九度のような真似をした。すると鈴カンは、子分どもを
見渡して、『さァ、野郎ども、しめろしめろ』。締めろと聞いて、私は、『何ッ』と、傍らの一升瓶をとって
立上がった。鈴カンがびっくりして『客人、気が早くていけねえ。しめろというのは、お前さんを締めろと
いうんじゃない』と、弁解し、シャンシャン、シャンシャンと、一同で手打ちをした。
こうして私は、やっと岩間某を連れ出すことに成功したのだが、西新井橋までくると、
また後ろから襲撃された。青年指導部長になるなどと云ってもアテにならぬ、岩間を
連れ出すための策略にすぎんから、岩間を奪い返せ、と考えが変わったらしいのである。
私は岩間を川の中へ飛び込ませて、十余人に当身を食わして、ひるむ隙に、自分も袴を
はいたまま、川に飛びこんだ。闇の川をしばらく泳いで、川下の岸に近づき、草をつかんで
上がろうとした瞬間、大きな棒ががーんと脳天に来た。脳震盪を起すほどの痛みであったが、
何くそ、とこらえて土堤にはい上がって草むらに身を伏せていた。
一撃の見事な手応えに、ワッと喚声をあげて引きかえした連中、またすぐ様子を見にやって来た。
もはや川縁には人影もなく、黒い流れが音もなく流れている。『野郎、とうとう往生したか』。鼻の先で
鈴カンの声がする。むっくと起き上がった私は、『野郎ッ』と鈴カンとおぼしき影に力一ぱい当身を食わ
せた。これで気がゆるんだのか、私はそのまま意識を失ってしまった。
325 :
257:2009/01/31(土) 11:58:40 ID:IuKbnQUT0
気がついてみると立派な座敷に寝ている。先に逃げ帰った岩間が、かねて鈴カンと張り合っている
森本一家の若い者を連れて、私の救出にかけつけたわけである。『先生、気がつきましたか。先生
の門人が一人のびていたからついでに戸板に乗せてきましたぜ』と若い者がいう。いや、私は一人で
行った筈だが、と開けはなった隣座敷を見ると、鈴カンが寝ているではないか。えッ、鈴カン、というので
森本一家は総立ちになって鈴カンの枕もとを取巻いた。鈴カンと見分けのつかない程のあわれな姿で
のびていたのもみっともないが、袋の中の鼠をいじめつけるのも大人気ない。という私の発言で、付け
人をつけて、ふるえ上がる鈴カンを送りかえしてやった。
このだらしなさに子分にまであいそをつかされた鈴カン、悪業の果もあわれに、間もなく側近を
取りまとめていずこへか逐電してしまった。これを喜んだのは附近の住民である。われわれを
長年苦しめた鬼がいなくなったといって、赤飯を炊いて祝ったということである。
雑誌『キング』1953年 12月号 298〜306頁 寄稿者:国井善弥