最強の剣豪は誰だ?PART2

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筆者国井道之氏は明治二十七年福島県湯本に生まれ、本年六十歳。
上泉伊勢守を流祖とする鹿島神流十八代目の道統。柔術、剣術、槍術
等武芸十八般の免許皆伝。十九歳以来他流自愛にのぞむこと三百十余回、
恩師佐々木正之進に一敗のほか不敗の記録を有し、時に暴徒をこらしめる
など、その実力は昭和の宮本武蔵といわれている。
288257:2009/01/30(金) 12:54:13 ID:aCbD8Uuz0
雑誌『キング』1953年 12月号 298頁 

「武芸十八般免許の背広武芸者巧名話」

寄稿者:国井道之 (武名:国井善弥/鹿島神流師範)

【アメリカ将校をこらす】

終戦直後のことである。あまり広くもない私の道場の前の路地に、一代のジープがとまった。
中から降りたのはアメリカ軍の大尉の肩章をつけた雲突くような大男と、ニ世の下士官である。
私の道場は、東京滝野川にあって、近所に東京工場がある。そのアメリカ人は、東京工場の接収で、
毎日通っていた男で、かねて日本に行ったら国のみやげにジュウドウを習いたいくらいに思っていた
らしい。ニ世の通訳で、ジュウドウの道場でないとわかると、それでは何をするところかという。私は、
鹿島神流が、日本に古くからある武道であることを説明した。

『日本古来の武道というものは、決して人を殺すのが目的ではなく、いわゆる侵略的なものでもない。
敵対行為を受けたとき、己の身を守ると同時に相手の非を是正する、敵を包容同化するのが、真の
武道精神である』

それを聞いて、分かったのか分からないのか、道場のまわりに掛けてある木刀、薙刀、槍などを見て、
彼はイヤな顔をした。アメリカ人はジュウドウには好奇心をもつが、剣道は日本兵の突撃の凄まじさが
すぐと連想されて、あまりいい気持ちじゃなかったらしいが、『一つあなたのその武術をみせて貰いたい』
と申し出た。私は奥の間から九尺柄の真槍を持ち出し鞘を払った。

 彼は私が突撃をやるのではないかと思ってドキっとしたようだ。私は手を振って、槍を彼の手に渡した。
『どこからでもいい。これで私を突いて来い』と。ギラギラ光る穂先を見て、ちょっとたじろいだ様子だった
が、占領当時なので小癪なジャップめが、とでも思ったらしい。『よし、ゆくぞ!』とでも叫んだのだろう。
槍を銃剣術のように構えて、私が袋竹刀をとるより早く、胸のあたりをめがけてサッと突いてきた。

私はケラ首三寸のところを右に払って、それを外した。また突いてくる。こんどは左に払う。また突く、
また払う・・・で、五〜六回も同じことを繰返しているうち、晩夏のこととて、彼は全身湯をかぶったような
汗になり、形相物凄く、とうとう本当に殺気立ってきた。
289257:2009/01/30(金) 12:55:47 ID:aCbD8Uuz0
私は程よいところで槍を制して、今度はこれを持ちなさい、と六尺の樫棒を渡した。
『これでなぐって来なさい。私の頭蓋骨をうちくだくつもりで』
心得たとばかり、六尺棒を大上段にふりかぶった。六尺男がふり上げた六尺棒が、うなりを上げて
落下した。はっと身をひらいて木剣でうけとめたところが、木剣は真っ二つに折れてしまった。
恐ろしい手応えである。私はこの男をちょっとからかってみたくなった。というより、武道をわき
まえない、露骨な攻撃の意図に、この人の未熟を感じ取って、敵意をこらしめてみたくなった。
そんな感情が走るいとまもなく、第二の棒が私の頭上に打ちおろされた。いや、打ちおろされようと
した瞬間、ひょいと体を沈めて、木剣を逆さまに、束もとで、六尺棒をうけ流そうとしたために、
相手は前にのめって、木剣の束に、高い鼻をいやというほどぶっつけた。

『わッ』と、尻餅をついた。六尺棒を放り出して鼻を押さえた両手の間から、タラタラと血が流れ出した。
彼はカンカンの立腹である。『なぜこんな乱暴をするか』『乱暴ではない。武術というものは決して好戦
的なものでなく、あくまでも防衛の術である。それを貴下が憎悪を持って攻撃して来たから、私はその
危険から身を守っただけである』 果して私の真意が飲み込めたかどうか分からないが、私の淡々たる
態度を見て、根が磊落な軍人らしく、しまいにはカラカラと笑って握手を求めてきた。
290257:2009/01/30(金) 12:56:11 ID:aCbD8Uuz0
【鹿島神流の道統】

私の家は、先祖代々、鹿島神流の武道師範である。祖先は源義正で、上田源氏の初祖であり、
国井と号した。祖父の代になって時世が変わり、父はあまり武道をやらなかったが、私は生まれ
つき武術が好きであった。

 大正の初め、私が十九歳のとき、水戸の武徳殿に武道大会があった。地元の茨城はもとより
東北、関東の各県から、腕におぼえの武芸者が二百数十人集まった。私の家は代々福島県の
湯本にあって、晴れの腕前を試すべく勇躍出かけた。祖父からは大会の審判役である佐々木
正之進という同じ鹿島神流の先生である老人に、添書を持参した。

 大会は勝ち抜き勝負で、三日間にわたって行われ、意外にも私は最後の優勝者となった。
当然、優勝旗が貰えるものと思っていたら、審判席の一老人が、お前には渡せないという。
それが、なんと祖父からの手紙を届けた佐々木老人であった。『私に勝たなければ渡せない』と
いうわけだ。不埒な話だ。今になって私の優勝を阻むとは。よし、それならこの老いぼれを打ちとる
まで、と私は、立会いを挑んだ。老人は八十余歳、鶴のごとき痩躯に白髯を胸まで垂れ、稽古用の
鎖鎌を持って現れた。
 
 私は鎖鎌と試合したことがないので一寸たじろいだが、なにクソ負けるもンかと、太刀を青眼に構えた。
老人は右手に持った分銅を、頭上にクルクルと振り廻していたが、『やッ』という気合一声、その分銅を
私の眉間を狙って投げた。すかさず受け止めたが、分銅は太刀にキリキリと巻きついてしまった。老人は
それをグイグイ手繰りはじめた。こちらはどうすることもできない。残された一手は突きあるのみ、『えいッ』
と、一文字に突きをくれれば、老人は体をひらいて、左足をつき出した。私は両足をさらわれ、見事老人の
鎌に首をひっかけられたからたまらない。私は亀の子のように四ツン匍いに叩きつけられてしまった。全く
醜態の極みであった。
291257:2009/01/30(金) 12:56:38 ID:aCbD8Uuz0
 負けぎらいの私は、もう一本試合をのぞんだところ、またもや木剣に鎖をまきつけられた。しばらく
にらみ合っていたが、やがて老人は、再びズルズルと鎖を手繰りはじめた。八十の老人とは思えない
怪力だ。再び私の首にパッと鎌をかけてきた。・・・こう来ると思っていたから、私は鎌の下をかい潜って、
巻かれた太刀で老人の二の腕をピタリと押さえ、足搦をかけて老人を倒した。瞬間、手許がゆるんだから
鎖は外れ、自由になった太刀を、老人の顔面に擬した。『参った!』老人はそういってサッと立上がり、
『もう一本来い!』と、鎖鎌を構える。鎖は三度キリキリと太刀に巻き付いた。

こんどは私の方から刀を逆さまにして、私の首にのびた鎌を救い上げ、刀を円転してグーッと押さえつけて
行ったから、相手の鎌は動きがとれない。(さア、どうだ!)口には云わぬが、私がそういう気勢をみせると、
老人はニッコリ笑って、

『お前、祖父さんに習ったな?』
『いや、いま偶然使ったのです』
『先の手は鎌渡りといい、今の手は円の虚太刀といって、鎖鎌に対抗する立派な手だ』
それから、ようやく優勝旗を渡され、帰ろうとすると、老人が、『おっとどっこい、帰ってはならぬ。今日から
お前の身柄はわしが預かったのだ』 というわけで、そのまま佐々木老人の住居に連れていかれた。老人
の住居は水戸から小八里ほどの山の中で、伊沢という所。私はそこで丸一年、老人に鍛えられた。