正中心の鍛錬は、いつ如何なる状況でもできるっ!
たとえ、ルンルン気分でスキップをしながらでもっ!
ぴょんて跳ねるのだけでもすげえ
>>867 いきなり小太りのオッサンが出てきて棒を上下させてて吹いたww
メタボ強健術
実際に床板踏み抜いたり根太へし折った奴いる?
いまどきそんな安普請どれだけある?
床も抜けないし木もへし折れない。
そんなの迷信。
ただのメタボになるだけ
肥田式で効果が出ない人は準備姿勢からやりなおした方が良い。
>>961 俺もそんな凄くないから教えられる事は特に無いなあ。
春充の本をよく読むのが一番無難で良いと思う。
みなさんは強健術以外の日常生活でも
あの尻を突き出して腹を落とす姿勢で過ごしているのですか?
私はきつくて維持できないんですが
日常が一番大事
立ち読みしながら
軽く尻を突き出し、軽く腰を反らし、軽くアゴを胸に寄せる
TVを見ながら姿勢を作り悪しき力を抜く
春充は、日々中心力をウンと鍛えておけば四六時中姿勢を気にする必要なし、と言っているね。
中心力が作れる人はそれほど気にする必要なないだろうね
しかし現実には作れない人ばかりだから
日常を修行の場とすることが大事だよ
>私はきつくて維持できないんですが
骨格構造による中心力を得る修行は
力を抜く修行、楽なものだよ
肥田春充が戦前にある雑誌に一回だけ寄稿してて、今日偶然それを手に入れた。
もし戦後になってまだ人目に触れてないといというか、あまり出回ってないのなら、
ここに転載してみたいと思うんだが。読んでみたい人居る?
いるいる!
>>968 おk。といっても、春充が書いてることは書いてるんだが、
自伝的な内容なので、技術的なことは期待せんといてね。
俺は肥田式はほとんど知らないんだが、こうやって発掘した記事を
そのまま眠らせるのはなんだか古書が可哀相になるので、必要としてる
人たちのところになるべく還元することにしている。
勉強の合間の息抜きにちょこちょこ書き写してるので、遅くなるかもしれんが、
今日中に記事の半分位は投下できると思う。スレの残りレス数も少ないし、読み
モノとして埋めるにはちょうど良いと思う。勉強ひと段落したら書いてみるわ。
これは資料的にも貴重だと思われるので期待!!
よく文学者なんかだと「○○全集」みたいなのがあって、作品以外の手紙や日常の些細
なメモまで収録されているけど、そういった資料のひとつとして存在自体が貴重。
このスレは強健術実践のスレであり
また肥田春充ファンクラブでもあるとも言える
20分オーバーしたけど、書き写しが終わりました。
>>970 >これは資料的にも貴重だと思われるので期待!!
期待してるところ、大変申し訳ないんだが。貴重どころか、おそらく
このスレの住人達には知ってる情報ばかりだと思う(・∀・ ;)
>>971さんの言うように、あくまで実践とは別物、ファンクラブの雑談で
「こんな雑誌にも寄稿してたよ」という、あくまでコレクションの一環
として扱ってください。有用な情報を得よう、という視点で読んでいくと
知った内容ばかりで肩透かしを食らうと思います。
個人的には、あの当時「寄稿した」という春充の行動や熱意や存在証明。
そういったものを評価認識してもらえればと思います。でないと「この
雑誌を当時読んだ人以外は、寄稿した事を知らない」という事になって
しまいます。上手く言えませんが、それは何だか寂しいものです……。
さてさて、つーわけで気持ちを切り替えて投下します。
われ死に勝てり
== 村一番の弱虫が僅か二年にして
この強健體となった体験談 ==
肥 田 春 充
世に私くらい虚弱に生まれついた者は少なかろう。
否、虚弱というよりは、寧ろ生きていることさへ不思議な程で、
全身殆んど骨と皮ばかり、肋骨などは一本々々透けて見える位に
痩せ衰えた見る影もない子であった。
私ばかりではない。私の一家は父と母からして非常に弱く、父は
絶えず頭痛や神経痛、不眠症、腸胃の障害等に悩まされ通しであったし、
母はまた生来の虚弱に常に病床を離れることが出来なかった。
従ってその間に生まれる子はどれもこれも満足には成長せず、私が生まれる前、
又幼少の頃、既に豊次、ふじの、藤吉、うめの、吉宗の五人の兄弟相次いで倒れ、
残る者も、重なる看病の疲れと死別の痛恨悲嘆とのために続々病床に倒れた。
然も、杖とも柱とも頼むその母も、私が三歳の時遂に打続く悲嘆と疲れに堪えきれ
ずして此の世を去ったのであった。
ああ死に続く死! 又死!
木の葉散る秋の夕暮れ、累々と重り重る血縁の墓前に立てば、細々として身に迫る鬼気、
何れ近く自分も此処へ運ばれて来るのかと思うと何とも云えぬ怖ろしさ悲しさに思はず
ブルブルと身慄いせずいはいられなかった。長兄川合信水の如きは、遂にこれより人生の
疑義に逢着し、沈思瞑想、飜然として信仰の一路に就いたほどである。
こうして死と病に被われた悲惨な家に私は生まれたのである。
当時、私の父 川合立玄は歳既に五十歳。従って私は老年の子、乳の足らぬ子、
尚更以て一人前に丈夫な筈はなく、生気のない顔、糸のように細い骨、蒼ざめて
しなびきった皮膚、私の友達は、私を見る度に「茅棒! 茅棒!」と嘲りはやし
立てたものである。
良心はこの有様に心配して、何とか丈夫な身體にしたいと、付近の医者という医者を
たづね、薬という薬も飲んで見たが、やはり弱い生まれつきは何とも致し難く、一日も
健やかな日は無かった。殊に五歳の時には猛烈な麻疹に罹り、その上余病を併発して
最早寸時寸刻も油断の出来ぬ危険な状態に陥った。
時恰も旧暦のうら盆會。その年既に一児を失っていた父は、またしても私のこの有様に
ホッと深い溜息を洩らして、『せめてこの盆の過ぎるまで生かして置き度い……』と、涙
ぐみつつしげしげと私の顔を見るのであった。
が、幸いまだ寿命があったものか、危うくその難関を逃れて生命ばかりは取り止めることが出来た。
が然し、生きているとはほんの名ばかり。父はカサカサに荒れてしまった私の皮膚に、
オレフ油を塗って辛うじて外部から栄養を与えるという有様であった。
そんな訳だから、私は、戸外へ出て遊ぶようなことは殆んどなく、始終家に引篭もったきり、
少し寒ければ炬燵にかじりつく、一寸叱られても直ぐ涙ぐむという調子、学校へ行くべき
年齢になっても行かれず、行ってもいつも休み続けて、人並みの勉強などは全く思いも
よらぬことであった。
所が、何という機縁であろう。私は弱いながらも次第に長じて物心つく年頃になって、
ふとした動機から俄然心機を一点することになった。
その時私は風邪がもとで又もや身體が悪くなりかけていた。ある日の夕方、私は
ぼんやりと窓にもたれて暮れ行く空を眺めていると、奥の方で誰かしきりと何か
云っている声が聞える。『何だろう?』何気なく立って奥へ行ってみると、父は
仏壇にお燈明をあげ、一心不乱に祈ってる。
『……仏様、先祖代々様、あの子だけはお助け下さいまし……どうぞどうぞお助け
下さいまし、一心こめてお願い申し上げます』
繰返し繰返し、父は声も涙にふるわせつつ祈っている。その時分、父も余程身體を
悪くしていて、立つにも座るにも難儀そうであった。父はもう自分の余命幾何もなき
を感じ、わが亡き後の弱い子の行末を案じ、身も心もなく祈っているのである。
聞いているうち、私は堪らなくなってワーッと其処へ泣き伏してしまった。父は驚いて
振り返って『おお、お前はそこにいたのか……泣くな泣くな。わしは今、先祖代々の霊位
にお前の身をようくお願いして置いたよ、だから、お前は今にきっと丈夫になるよ。わしが、
……わしが居なくなっても……』父は後をいうことが出来ず男泣きに泣いた。私も泣いた。
二人は暗くなった部屋で、いつまでも抱き合って泣いた。
その事があってからである。私の胸にある一つの強い強い考えが生まれたのは。
――ああ済まない、お父さんに済まない。私は今まであまりに自分の健康について
あまりに無関心であった。素より私とて病気は苦しい。死は恐ろしい。然し今までは
病気に苦しめられながら、只じっとちぢこまっていただけで、何等積極的に強くなろう
などとはしなかった。『私は強くならなければならぬ、是非強くならなければならぬ』。
私の胸に、むくむくとこうした願望が湧き上がってきた。そうして一念発起した私は、
それから敢然として強くなる為の努力を励み出した。ちょうど折よく、私は当時つれづれ
なるままに講談本を読み始めていたが、曰く宮本武蔵、曰く、荒木又衛門、等々……の
血湧き肉躍る勇士の活躍は、又一方私の心に強い衝動を与えた。あんな天下無敵の豪傑に
なったらどんなに愉快だろう。そうした空想が私の胸を煽り立てた。当時私は十八歳であった。
私は医書や強健術の本をしきりに読み始めた。すると普通人體の細胞は七年間でスッカリ入れ
代るということ、又身體機関は、適当に訓練すれば必ず強健になり得るものである。私のような
虚弱な身體でも、やりようでは必ず強健體に改造できるのであろうということを知った。
私は、前途が急にパッと明るくなったような気がした。尚、だんだん研究して行くうちに
身體を丈夫にするには色々あるが、殊に三つの大事なことがあることが判った。
第一には筋肉、第二には内臓、第三には皮膚、この三つを丈夫にすれば必ず丈夫になれる。
私はこれに気がつくと、順々にこれを実行すべく決心した。
先ず第一に筋肉の強健法――これには、一筋ずつ各々緊張を与えて生理的に効果を得るのが
一番よいと考へ、手、前腕、上腕、首、胸、という風に、各々別々な緊張を与えて見た。
するとその筋肉は忽ちの間に血行が盛んになって、グングン張り切って来た。今まで火箸の
ように細かった上腕はむっくりと力瘤が入って来るし、痩形の肩はグンと男らしく張って来た。
『此の調子だ! この調子で外の部分もやってやろう!』
次には内臓器官の強健法――枕なしに俯向に寝て深呼吸をし、柔軟な内臓器官を充分に
運動させてみた。と、見る間に腹部の諸神経が刺激されてその働きが敏活になって来る、
横隔膜の圧下と腹部緊張とで血液の循環が平等になり、腹部に滞っている静脈血を勢い
よく心臓に押し戻す働きを起こして来る。一方肺量は次第に多くなって余程過激な運動
にも息切れ一つしなくなった。お陰で私の内臓器官は可なりの暴飲暴食、過激な運動にも
ビクともしないようになり、同時に胃腸の消化力はメキメキ旺盛になってぐんぐん肥満さへ
して来た。
この上は皮膚だ。皮膚は多くの人が疎かにしているが、実はこれが大切、皮膚は身體をつつ
んで保護しているもの、之が弱ければ従って風邪にも罹り易く臓器も痛み易い。且つそれから
いろいろの余病を併発する。健康には皮膚を強くすることが先決条件である。私は日光浴も
やった。冷水浴もやった。が、そのうち最も効果のあったのは亀の子タワシの摩擦法である。
摩擦法として最初私は冷水摩擦や乾布摩擦をやったが、そんなことではどうも生温くて仕方が
ない。そこで思い切って亀の子タワシで試みた所、なんという爽快さ! 何という溌剌さ!
全身の皮膚は痺れるような痒いような焼けるような感じ、然も顔など擦ったあとは、目も鼻も
口も活々と引緊って来て全面から悪気悪血が一時に迸り出たかと思はれるばかり。
読者は或は、それは乱暴だ、あんな強いもので擦ったなら、皮膚は忽ち荒れてガサガサになるだ
ろう、と思はれるかも知れないが、否、却って表皮の新陳代謝がよくなり、脂肪の分泌は盛んに
なるから、皮膚は次第にツルツルと滑らかになり、丁度真綿を包んだ絹に触るような感じがしてくる。
方法は至極簡単です。誰方もやってご覧なさい。朝起きた時は乾燥のままで、入浴のときは石鹸を
ぬってでも、手足は縦に、胸腹顔面は横に、少々力を籠めてやっても少しも心配は無い。
誰にも簡単に然も安価に出来るものであるからぜひ大方に勧めたいと思う。
僅々六七銭の亀の子タワシも強健を楽しむ者にとってはまた千金の価値があるのである。
一方筋肉は隆々として来たし、内臓器官は丈夫になりその上、皮膚は針で突いても破れぬ
ほど強靭になったのだ。更に此上はこれに伴って體格の均整、姿勢の調和、動作の敏活、
気力の充実、精神の平成等、各方面に亙って徹底的の強健法を施さねばならぬと、極力
その方面も力行したので、最初十ヶ年も掛かったら人並みの身體になれるだろうと考えて
始めた私であったのに、驚く勿れ、僅かニヶ年の後、二十歳の春には、既に堂々、儕輩を
圧する雄大豪壮を誇る立派な體躯と化したのである。
然しながら、私はそれのみで満足しない。更に更に此上は、この身體を実社会に試みなければ
ならぬと、明治三十九年四月、二十四歳の春、私は故郷山梨県南都留群小沼の村を後に敢然笈
を負うて上京、中央大学法学部、明治大学政治部、並びに商学部、早稲田大学文学部、併せて
四科目一時に学んだが、これほどにしても私の精神肉體は余裕綽々、少しの疲労や苦痛は覚えず
意気は益々火焔の如く燃え上がるばかり。
かくて明治四十三年、四科目一時に卒業、翌年十二月近衛歩兵第四聯隊に入営し、之こそ我が
全能力を試みる最上の好機会ぞと、学科に教練に全力を傾けて勉励、人一倍の心身酷使をして
見たが、これまた疲労や苦痛は毛程も覚えず元気いよいよ旺盛、有り余る内心の充実力のハケ
口に苦心した程であった。かくて、すべての試練も見事に貫徹してかつて『茅棒』と罵られた
虚弱極まる私の肉体は、俄然一変、隆々たる筋骨、溌剌たる元気に充ち充ちて、絶対強健その
ものとなったのである。
『ああ、我れ死に勝てり!』この一語、決して私の誇示でもなければ驕言でもない。
昭和三年、数年振りで『村一番の弱虫』から『村一番の強健者』となって故郷に帰った
私を見て、村人は誰一人として瞠目驚嘆せぬはなかった。
父は大正四年世を去ったが、生前、この強健法の産物として案出した私の所謂「川合式
強健術』を毎夜実行するに及んで、全く無病となり、八十一歳の高齢にて倒れるまで専心
家業に精励したのであった。
さもあらばあれ、私は本年四十八歳、然しながらその強健は恰も二十歳代の青年と少しも
変わらぬ自信を持っている。
想うに、人體の改造は必ず出来る。克己、忍耐、勇気、それさへあれば
如何なる虚弱者病弱者といへども、必ず根本的な改造は出来るのである。
私はその最も適切な証拠であると信ずる。
「キング」昭和五年(1930年) 七月号 八十二頁
と、いうわけで終わりです。色々と雑誌を見ていて、柔道の三船や嘉納の寄稿があったり、
国井善弥のインタビューがあったり、面白そうな記事をコピーしていくなかで、武板で見た
ことのある名前(春充たん)を見つけたので、コピーして転載させていただきました。
書籍化されてない雑誌への寄稿というのは、まだまだあるかもしれませんね。
世に出ることを祈っています。おわり。
ムーの本に一部載ってたけどその完全版って感じだな
>>981 ありがとう。あんたのIDも神だぞ。
読みやすさと書きやすさを優先して、書き写すときに言葉使いや漢字など
極力直しました。あと、写真が三枚ほど載ってました。四十八歳のときの
上半身裸の春充の写真、茅棒といわれたときの子供のころの写真、10人
くらいで肥田式をやってる写真の三つです。
肥田式関連でまだ復刻されてない古書とかってあるのでしょうか?
肥田式に関して詳しくないので分かりません。詳しい人教えて。
個人的には、春充が海軍に入隊したときに提出したという大学ノート何冊分かが、
どこかの基地に所蔵されてる気がする。まず間違いなく表には出ないだろうけど…。
海軍のレポートは単なる課題なので、教官の評価後に処分されているでしょ。
>>983 内容が保存するにあたいする場合、保存されてる可能性はあると思う。
ないな。
当時の日本軍において、一兵士のレポートにどんな価値があると想定しているのか?
たとえ上官に感得するものがあったとしても、公的保管する理由には当たらない。
なにより、日本軍は無いんだからどこにあるというのか?博物館の倉庫か?
>>985 そうけんか腰になるなよ。ただ願望を述べてみただけ。「ある」と断言
してるのではなく個人的に「思ってる」という範囲だよ。貴方の説明を
聞いて納得した。
復刻されてない本を調べてみたんだが「此の大獅子吼を聴け」「日本の使命」は
は確かにすぐには手に入りにくいな。
ここら辺は国会図書館で閲覧できる。
心身強健体格改造法 肥田春充 大正7
実験川合式強健術 富士川春也 大正6
川合式強健術創始者肥田春充先生の御講演と御近詠 増田智万雄 昭和11
肥田春充先生講演及随筆 心身強健聖中心道研究会 昭和12
陸軍の思考法はまだ武士気質がのこっていた
日露戦争までは簡明直截で、つねに実用性を重んじ、当時世界有数の秀才将軍といわれたクロパトキンを満州の野でやぶった。
であるのに、昭和期になって指導部に秀才の層が厚くなると、物の考え方が、政治や外交の面でもそうだが、
抽象的思考を好み、形而上的ポーズにあこがれ、諸事現実離れしてきた。
軍人の文章が変にツルツルして気はずかしいほどに形容詞が多く、実感がまるで抜けたようなもの
(いまの反戦グループの諸君の文章とそっくりである)になってゆくのは、やはり昭和初年からとおもえるから、
なにか民族とか歴史とかいった基本的な体質と関係があるのかもしれない。(『歴史と視点』より)
亀の子タワシ買ってこよ
明日図書館行くかもしれないんだけど、
>>987の中で何かリクエストが
あったら言ってくれ。ついでにコピーしてきて転載してみる。
このスレでまだ出てないような春充のエピソードとか強健術のコツとかあったらよろしく
>>990 講演会の本からエピソード拾って欲しいな
上二冊のはなんだかんだ知ってる話が多そうだし
ついでに次スレ立てに行ってきます
梅
ume
聖
中
心
道
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。