結局のところ最強の剣豪は一体誰なんだよ

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952名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 16:14:42 ID:VMM+gxc70
探したけど見つかんねーやw
自分で探してみ。

あと、渋川流柔術の「渋川流柔術大成録」にはこんな下りがある。
「古人は刀でも、槍でも、薙刀、鉄棒、棍棒でも、ありあわせのもので闘ったものである。
今日のように刀法を学ぶ者が槍を使えず、槍を学ぶものが刀を使えない。
何でも使いこなした上泉信綱のことなどを、よくよく考えてみるべきである。」

これはhttp://tokati9.hp.infoseek.co.jp/rekisi1.htmね
953名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 16:46:26 ID:/EMVJkYIO
>>946
武蔵w
954名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 16:51:46 ID:faEYYqq40
上泉とか塚原とかのいわゆる剣聖に関する資料って結構沢山あったりするの?
弟子筋が褒め称える以外の物とか
955名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 18:34:38 ID:4Hj0JabC0
弟子筋が褒め称えてるのを差し引いても、影響を受けている流派が多数あるな。
956名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 18:44:05 ID:v2m/Rn6u0
あまりにも古い人達だからねえ・・
ただ剣豪の驚異的な集中力は嘘ではないと思うね。
それなくして新陰流の正確な角度とタイミングで敵を強制的に崩してしまうという発想は出て来ないでしょう。
上泉が真剣の斬り合いでそれを常に出来たかどうかは分からないけど。
絶対条件である集中力をどう生かすか殺すかという部分でキャラが別れるんだろうな。
そういう意味では武蔵も上泉も卜伝も関係ないと思うよ。
957名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 18:50:59 ID:4Hj0JabC0
武蔵は今で言うところの大山倍達みたいなもんだと思うな。
958名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 18:53:58 ID:VMM+gxc70
>絶対条件である集中力をどう生かすか殺すかという部分でキャラが別れるんだろうな。
そういう意味では武蔵も上泉も卜伝も関係ないと思うよ。

・・・どういう意味?
959名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 18:59:18 ID:pyPv81430
でも弱かったら細川藩が指南役に抜擢するかね?
良くも悪くもハッタリは通用しない時代だよ。
960名無しさん@一本勝ち:2009/01/21(水) 19:02:07 ID:4Hj0JabC0
まぁ、それなりに強かったんだろうけど、やっぱりいつの時代も目立つ行動を
起こす人は同程度の人よりも上に見られる。
961フルコン:2009/01/21(水) 21:20:45 ID:8tNsl4Tn0
 武蔵が指南役?? 食客扱いの殿様のお伽衆だろうが…
962名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:16:03 ID:jaXJ0MK60
武蔵は細川家の柳生流の剣術師範を瞬殺してるだろ
まったく手も足も出なかったらしい
963名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:17:05 ID:cjHvIfxK0
柳生の誰を瞬殺したの?
964名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:19:28 ID:FvziN+r5O
あらゆる兵法に精通し、
一騎打ち・合戦ともに卓越の強さを誇り、
剣道の原型(袋竹刀)を考案し、
弟子を育てる手腕も秀逸…

いいじゃん、上泉で。
965名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:20:17 ID:jaXJ0MK60
氏井弥四郎という細川家の剣術指南役
966名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:21:48 ID:cjHvIfxK0
ソースは?
967名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:26:14 ID:jaXJ0MK60
武蔵が肥後に入国すると、雲林院弥四郎光成(うじい・や
しろう・みつなり)との秘密の御前試合が行われた。光成
は、柳生新陰流免許皆伝の達人、忠利公の側近で剣術
指南役となっていた人物だ。武蔵の伝記「二天記」には
氏井弥四郎と書かれている。伊勢の出身で、光成の父
は新当流免許皆伝の剣豪、雲林院弥四郎光秀である。
 今も熊本には光成の子孫がおられ、この家からは、新
当流の塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)が父光秀に与えた
極意皆伝書や、上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのか
み・のぶつな)から新陰流を受け継いで疋田陰流を創始し
た剣豪、疋田豊五郎(ひきた・ぶんごろう)が父光秀にあて
た起請文など、貴重な古文書が発見された。古文書から
、光成の父光秀が当時すごい剣豪であったこと、光成は
この父から新当流の極意皆伝を受け、さらに柳生家と交
流して柳生流の免許皆伝を受けていることから、塚原卜
伝の新当流と上泉伊勢守の新陰流の合流があったこと
などが分かった。つまり、光成は、2つの流派を極めた剣
の達人であったということである。
 雲林院光成は、徳川家の兵法指南役であった柳生但
馬守宗矩からの依頼をうけ宗矩の紹介状を持って、肥前
小倉城主であった頃の細川忠利公の重臣に接触し、細
川藩の剣術指南役となっている。古文書には宗矩とやり
とりした文書が多数見つかっていることなどから、幕府の隠密であったと見られる。
http://www.tabimook.com/musashi/story3.html
968名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:30:49 ID:jaXJ0MK60
御前試合は、武蔵の肥後に入国すると間もなく行われた
とみられている。側近をも遠ざけ太刀持ちひとりを置いた
秘密試合である。「二天記」によると、両人は木刀で立ち
あい、雲林院弥四郎光成(うじい・やしろう・みつなり)は武
蔵に打ち込もうとするが武蔵は光成の打ち込む気を感じ
て自在に構えをかえて打ち込ませない。光成ももし強引
に打ち込めばやられてしまうことが分かる達人である。光
成は3度打ち込もうとするがついに1度も打ち込めなかっ
た。武蔵も忠利公の御前をはばかって光成の技を押さえ
ていただけであった。
 そこで柳生新陰流の達人でもある忠利公自らが武蔵と
立ち会うが、やはり勝てない。忠利公は驚き感心し、それ
から武蔵の「二天一流」の門下となったという。この後、
忠利公は疝気養生として山鹿温泉に逗留し、武蔵を呼び寄せもてなしている。
http://www.tabimook.com/musashi/story4.html
969名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:30:52 ID:cjHvIfxK0
その内容って、他史料との整合性がほとんど無い『武公伝』を元に書かれてるっぽいけど?
970名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:38:26 ID:jaXJ0MK60
どこが疑問なの?
武蔵は氏井弥四郎とは戦っていないといいたいの?
そんなことありえないだろ
細川家の剣術指南役を倒せないレベルで細川家の
客分として迎え入れられるわけがない
実力で証明したから破格の待遇で迎え入れられたんだよ
971名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:44:22 ID:cjHvIfxK0
いや、もう少し武公伝や氏井弥四郎について調べれば判ることだって。
972名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:46:07 ID:d3tK5Dut0
そもそも秘密の御前試合って設定の時点で怪しいだろ。
973名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:49:40 ID:pXV+559M0
上泉伝説は無条件で受け入れるが武蔵には過剰反応ってw
974名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:51:47 ID:cjHvIfxK0
過剰反応というか武蔵系の話は整合性に乏しいから。
975名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 00:56:12 ID:jaXJ0MK60
人払いしての御前試合なんて普通にあるだろ
もし氏井弥四郎と戦っていないというなら、なぜ
武蔵が細川家の客分として破格の待遇で迎え入れられたのか説明してくれないと説得力無いよ
現実として武蔵は細川忠利に頼まれて
兵法35箇条を書いて提出してて、その文章も残ってるんだから
細川家の剣術師範も倒せないレベルの人間に
こういうこと頼むなんてあり得ないから
だいたいそんなことしたら細川家の剣術師範役や
その弟子も納得しない
976名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 01:12:38 ID:d3tK5Dut0
>>973
弟子に達人がゴロゴロしてる上泉の実力は疑いようがないだろ。
二天一流に武蔵以外に大きな実績を残したやつがいるか?

>>975
実力を見たいときは、お互いのメンツのために、弟子は出してもトップは出さないもんだ。
武蔵はすでに弟子がいっぱいいて有名なんだから、それだけで迎える理由としては十分。

それから、武蔵の文章力は現存する五輪書を見てもわかるだろ。
兵法をまとめさせるなら文章がうまいやつに頼むのは当たり前。

あと、二天記で三十五箇条になってるものが、二天記のもととなった武公伝では三十九箇条になってたり、
そういういい加減な資料しかないのが武蔵の弱いところ。
それに、兵法書として五方の構は必須。三十五箇条でそこが欠けてるってのはどういうことだと思う?
977名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 01:28:22 ID:cjHvIfxK0
責めるつもりはないけど、以前にも武蔵と沢庵の関係を小説で勘違いしてた
人もいるんで・・・・。

とりあえず理由はこうだ。

柳生は他流試合禁止だし、基本的に稽古すら部外者には見せない。
武公伝の作者は、武蔵と対決させる為に「秘密の試合」という事にした。

なぜ、作者はそんなことをする必要があったのか?
それは武蔵流の人間として、メジャーな柳生流より武蔵が上という形に
したかったから。

武蔵は、私的な旅行で肥後へ来たのだが、旧知の長岡興長に挨拶も
なしにいることはできない。それで上掲の書状を送ったところから、興長
から忠利に、武蔵が来ていると報告され、結局細川家につかまってしまい、
興長が一切を取持ち、客分として処遇されるようになった。
それが実際のところであろうと思われる。

武蔵の待遇に関わることだが、『武公伝』には他に、身分のこと、そして
支給住居としての屋敷のことが、記されている。
 武蔵は遊客、つまり一時的に滞在する客人である。したがって、諸士の
列に配せず、つまり身分は客分で、当然家中諸士の列に入らない。
 ここまではよいが、これに割註があって、人持着座の格だと記す。この
「人持着座の格」というのは備頭格ということで、細川家中なら知行数千石
を食む重臣並みということであろう。
 いづれにしても、「人持着座の格」とは、武蔵を偉く見せたい武蔵流末孫
の仕業である。しかし、この割註の記事がどこから出てきたのか、根拠不明
である。それに、諸士の列に配せずと記しながら、人持着座の格だと注記する
のも矛盾した話である。
978名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 01:43:59 ID:adal+jbDO
夢野久作の『魔界転生』という小説では、柳生但馬宗矩と宮本武蔵が死闘の末に、柳生が勝ったように描かれてるよね。

柳生新陰流は一刀流には及ばなかったものの、将軍家御指南役だからやはり実力はあったと思う。

武蔵は地方の名もないような剣豪とばかり戦って勝っているが、一流の剣術家が集まる都市部には近づかなかった。
勝つのもほとんどが一回限りの奇襲戦法だったとも言われている。
佐々木小次郎との巌流島の決闘を見ても明らか。
二度目以降は小次郎が勝っただろうな。

武蔵は、稽古場より本番一発勝負に強いタイプ。
剣豪というより、策を弄する勝負師だろう。
979名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 01:58:11 ID:jaXJ0MK60
>>976

いくら武蔵が有名だったとしても、実力を証明しないと誰も納得しないよ。
ただ有名だからという理由で、武蔵の教えを細川家の家臣が聞くわけがない。


>兵法書として五方の構は必須

必須じゃない。
基本的に武術に防御のための構えは必要ない。
武蔵も搆えあって搆えなしとはっきりいってる
五方の構えは人に教えるための例えであって、本当に大事なことはそこにはない
兵法35箇条に載ってないのはそれほど重要じゃないから
伝書のレベルとしては五輪書より兵法35箇条の方が高い
五輪書は兵法35箇条をかなり詳しく説明してる感じ
それに五輪書や兵法35箇条は他の剣術の伝書とはかなりタイプが異なる
これらは世間一般に広まっていた一般の剣術の技術書ではない
武蔵が独自にたどり着いた境地を説明した伝書で、武蔵にしか書けない
ただ一般に広まってた剣術の技術論を武蔵がまとめた書物ではない
980名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 02:10:37 ID:cjHvIfxK0
武蔵の強さに惚れ細川忠利は柳生流を捨てて武蔵に帰依した。
という、このような説話が発生してしまうのも、武蔵流末孫がおかれた境遇に
事情がある。
細川綱利の代になると、武蔵が肥後に残した兵法流儀は公的な場面から消える。
綱利は忠利以上に柳生家の兵法を信奉したのである。
綱利は寛文元年(1661)肥後入国、そして寛永3年(1663)21歳のとき、柳生宗冬
から『兵法家伝書』の相伝を受けた。『兵法家伝書』は、忠利がかつて柳生宗矩
から受けたことがあるから、細川家へは再伝ということになる。
綱利は、肥後入国にあたって、柳生宗冬の名代の者を同道して乗り込んできた。
それ以後、肥後では柳生流が大いに威勢をふるうようになった。
981名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 02:17:46 ID:jaXJ0MK60
武蔵は自分が作った二天一流が世間に受け入れられなくて無念だと自分でいってるから
武蔵の強さと二天一流の発展はまったく別
強い弟子が育ってるのと本人の強さは別
だいたい武術なんて自分自身の問題なんだから
無住心剣術が滅びたのも同じ理由
武蔵死後二天一流が発展しなかったから武蔵も
弱かったとかそんなこと言う方がおかしい
無住心剣術が滅びたから真理谷円四朗が弱かったとか
言ってるようなもの
982名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 02:21:24 ID:cjHvIfxK0
弱かったなんて俺は言ってないよ。

柳生の剣術師範を瞬殺したという発言に対してのレスしかしてません。
983名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 04:07:34 ID:pXV+559M0
新陰流をやってる前田英樹に倣えば
多くの剣豪が上泉門下になったのは新陰流のニヒリズムを超えた世界観に惹かれたって部分が強いんじゃないかな。
タイ捨流の評価を見ると丸目が現実の斬り合いでそれを実現できると考えたかは不明だけど。
前田英樹は武蔵をかなり評価してるんだよね。
上泉が剣術史上で最も決定的な存在だとしても、
必ずしも武蔵が上泉に負けるとは言い切れないのではないか。その当時の人間として最高到達点まで行ったのではないかと思う。
984名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 05:05:30 ID:95fK8FMTP
寛永十七年、忠利公の招きによつて肥後に至る。小倉より肥後に向かうとき、城外の山
に寿蔵を建てる。その後、伊織が承応二年四月に石碑を建て、その銘を春山和尚
に請う。その銘伊織自身の作と云う説あり。

武蔵、忠利公より十七人扶持、現米三百石賜り、御客分にて座席は大組頭の格合
なり。居宅は熊本千葉城に屋鋪あり。武蔵平居閑静にして、或いは連歌、茶、書画
、細工等にて月日を過ごす。書画の評価甚だ高し。平日共廻りは侍六人程也。門弟
は諸士千人に及ぶ。

忠利公の御前にて、柳生流氏井弥四郎と手技を比べる。両人木刀を以て立会
うこと三度、弥四郎に勝利なし。武蔵、御前ゆえ強く打つことなく、唯技を押えて働
かさせず。忠利公、柳生但馬守より柳生流相伝し奥義を極められるなり。
御工夫を回され御自身が立ち会うとも御勝利なし。甚だ驚き玉いて、それほどの
者とは思い召されざりしと感称し玉う。それより二天一流を御修行あり。

塩田浜之助と云う者、棒捕手の達人なり。或るとき武蔵に相手を請う。武蔵直ちに
短刀を持て対す。浜之助六尺八寸の棒を持て立向かう。武蔵、浜之助が棒を振り
出さんとする頭を押え働かさせず。又振り出す後を打つ。武蔵曰く「吾無手にて居
るべし。吾間のうちに足踏み入れば浜之助勝ちとする」と。浜之助大いに怒りて棒
を捨て手捕りにかかる。武蔵間の外より突き倒す。よつて間の内に寄り附くことな
らず。浜之助門弟に成らんことを願う。武蔵則ち門弟とす。浜之助棒捕手の達人
なるを以て門弟に習さしむ。世に武蔵流の棒とは浜田流のことなり。
985名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 05:23:00 ID:7bsmXkb4O



















986名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 07:34:17 ID:ZgxoV9k40
強い剣客とかって一度に何人まで相手出来たんだろうな
987名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 09:28:08 ID:yaLl5wIi0
>>978
>夢野久作の『魔界転生』という小説では、柳生但馬宗矩と宮本武蔵が死闘の末に

俺が知っている『魔界転生』は作者が山田風太郎で、武蔵と戦うのは主人公の
十兵衛だったが。
988名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 10:53:06 ID:PymRdzU2O
>>984
それも武蔵派が残した武公伝か二伝記でしょ。
歴史的背景からして、辻褄が合わない話が多いらしいけど。
989名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 11:49:07 ID:FKTMeTAh0
仮に武蔵に関する逸話がすべて真実であったとしても、
上泉を超える説得力は持たない。

というわけで、いいじゃん上泉で。
990名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 11:55:21 ID:PymRdzU2O
結局、前にも言われてたけど、武蔵の逸話は大山倍達みたいなものだろう。
991名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 12:12:23 ID:adal+jbDO
>>987
失礼!
その通り!作者は夢野久作でなく山田風太郎だった。

でも戦ったのは十兵衛だったか?
死んだ後までも宮本武蔵との勝負に念を残して成仏できない父親の但馬は同じように成仏できない武蔵と死闘して勝つが、まだ生きている息子の十兵衛が剣術家としていくら立派でも仏道的に情けないと父親の但馬を嘆く場面があったような気がしたのだが…。

何せ20年以上昔に読んだ本だし、テレビ化されたストーリーと記憶がごちゃ混ぜになっているのかも知れんから、後で書店にでも寄って立ち読みしてみる。
992名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 12:19:02 ID:BFOncqF5O
フェンシングで銀メダル取ったあの子が最強
伝説の剣豪など5秒で瞬殺できる
993名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 12:30:53 ID:yaLl5wIi0
>>991
但馬守が戦いたがったのは柳生兵庫。
武蔵は十兵衛が最後に戦う魔界衆。
スレの終わりも近いのに二度もこんなやり取りさせるなよ。
994名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 16:44:40 ID:NsrTOYbV0
次スレ誰か立てろ。
995名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 16:50:01 ID:pXV+559M0
またループするんだろ?
武蔵叩きがプロパガンダみたいでつまんないし
996名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 16:54:59 ID:adal+jbDO
>>994
立てたぜ。
997名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 17:00:09 ID:FKTMeTAh0
とりあえずパート1では上泉ってことでFAか?
998名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 17:05:43 ID:UdezvGhyO
次スレで違う結論が出るかねえ
999名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 17:24:38 ID:FKTMeTAh0
まあ難しいでしょ。
何百年と続く定説を覆すのは。
俺の嫁さんは武蔵と思い込んでるけどね。
バガボンドのファンだからw
1000名無しさん@一本勝ち:2009/01/22(木) 17:25:54 ID:FKTMeTAh0
とはいえ、定説を覆す新説にも期待したい。
だからって架空の人物はどうかなぁw
10011001
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