【組技】居合の技術と歴史を語る【立膝】

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801名無しさん@一本勝ち
799さんへ
うーん確かにそうですね
勉強します
802名無しさん@一本勝ち:2008/06/03(火) 00:18:49 ID:MQSeLsT90
居合い習ってみたいねえ・・・。
803名無しさん@一本勝ち:2008/06/03(火) 07:41:16 ID:2kzbSPtd0
4 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2008/05/08(木) 13:06:40 ID:7DY7Oqat0
FAQ(暫定版)

Q.「居合の道場を探したいけど電話帳やネットでは探せませんか?」
A.道場やHPを持たずに活動している団体、サークル、個人修行者は多いです。

探すポイントは
1)[体育施設で聞く]地元スポーツセンター、学校体育館、公民館、など
2)[地元掲示板を見る]体育活動以外に文化活動で行っている事もあります。要チェック。
3)[販売店に尋ねる]武道具店、刀剣商(ついでに顔見知りになっておく、地元以外でもOK)
4)[居合団体本部に聞く](地元の修行者を紹介してくれるかも)
5)[他の武道関係者]剣道、合気道、空手の先生方に尋ねる(失礼のないように)
804名無し@そうだ水戸へ逝こう:2008/06/08(日) 01:11:48 ID:I44cERQSO
東武館 最強居合道技

「腰抜け」

これが今だ出来ない方はどうぞ学びに来てください。
常識ですが、賂として菓子折りとお金(多額の現金を札束で)を忘れずに持参すること。
805名無しさん@一本勝ち:2008/06/09(月) 07:57:10 ID:sk1BQve80
超丁寧だな
806フルコン:2008/06/12(木) 22:22:44 ID:xMDoZDgF0
 うちのところは立会い抜刀が本来で、正座からの居合は
後年にそこから考案されたとのこと。また、正座だけでは
なく甲冑を着た想定での武者座りからの抜刀も何本かある。
 師匠は、抜きつけが肝要で、二の太刀以降は流儀本来の
剣術で相対するのだそうだ…
807名無しさん@一本勝ち:2008/06/12(木) 23:34:54 ID:qXAE/ugC0
制剛流とかもそうだな。
まず剣術ありきで正座からの抜刀、あとは剣術。
808名無しさん@一本勝ち:2008/06/18(水) 23:17:35 ID:3gvSEuP+O
正座と言えば、ふと初伝をやった時なにも出来ん自分を見つけて唖然としたな
今まで俺は居合じゃなくてスクワットしてただけだったのかと
あの時はショックで腹が痛くなった…
809名無しさん@一本勝ち:2008/06/24(火) 22:05:14 ID:UPkGBA760
 
810名無しさん@一本勝ち:2008/06/25(水) 01:03:41 ID:8Ue1H/kU0
今まで美人の女剣士に斬られたいなんてフェチがあったが
いざ道場を真剣に見学して指導者の人と話をしてきたらそんなにふっとんだ。
811名無しさん@一本勝ち:2008/06/25(水) 01:04:29 ID:8Ue1H/kU0
ふっとんだ、というよりそんな意識なんて自然と起こらなくなった。
812名無しさん@一本勝ち:2008/06/25(水) 18:56:24 ID:PV9IkezsO
>>811
どんな話聞いたん?
813名無しさん@一本勝ち:2008/06/25(水) 21:40:31 ID:8Ue1H/kU0
入会に前向きな話を指導者としたので。
例えば練習はどんなのから入るのですか?礼法や制定居合の技を見せてくださいとか。
刀の選び方はどーするんですかとか。
814名無しさん@一本勝ち:2008/06/25(水) 23:01:57 ID:i9W0NcVn0
まあ、武道には強弱とは別に「格」つーもんがあります。
前向きな態度で稽古できる、対話できるならそれだけでも意義の有ることでしょうな。
815名無しさん@一本勝ち:2008/06/26(木) 02:14:20 ID:2sjboap70
始めたばかりの超初心者です。
剣の振り上げ、振り下ろすのが全然上手く出来ません。
真っ直ぐ振り下ろす事が出来ず、どうしても左右にブレてしまいます。
また、振り下ろすときに、腕を絞るというのが、どうも上手くいきません。
剣の握り方、絞り方について詳しい方がいたら、ぜひ教えて下さい。
振り下ろした時、どうしても上手くいきません。
詳しい方、『手の内』を教えて下さい。
剣は
よろしくお願いします。
816名無しさん@一本勝ち:2008/06/26(木) 07:34:03 ID:ne8koTAXP
ブレるというのは、不必要な力みがあるから

では、ドコで力みが発生しているのか?

観察をしてみよう
いつもやっている剣の振り上げ、振り下ろしをスーパースローでやってみよう

5秒とか10秒とか時間をかけて、動き始め、動作中、動き終わり、それぞれの動作中に
腕の動き、筋肉の働き、体の変化はどうなってるか、感じる。頭の中でそれぞれ言葉にしてみるといい



力みがわかったら、今度は形の中ではじめから終わりまで、一連の中で、同じようにやってみよう
色々気づくことがあるでしょう
817名無しさん@一本勝ち:2008/06/26(木) 07:41:00 ID:ne8koTAXP
それぞれの指導があるし、あなたは初心者だから混乱して欲しくないので、聞き流して欲しいが

そもそも、腕を絞るというところが間違いなのかもしれない
私の所は絞ったり、力を入れません
刀が動きよいように、人が動きます
818名無し@そうだ水戸へ逝こう:2008/06/26(木) 18:54:11 ID:qmZf2wseO
東武館の通常カリキュラム

「胡麻擂り」

これが上手く出来ない者は館生失格です。
なお、胡麻擂りの極意は「揉み手」にあります。
揉み手をしながら卑屈に胡麻擂りをすることこそ当館の館生の条件です。
これは人間育成の上で重要な要素であるとの高い理念の元、当館は歩んでまいりました。
819名無しさん@一本勝ち:2008/06/27(金) 18:29:22 ID:vvq47Ks/0
居合道では人に刀を向けるのに抵抗感じてたらダメなんでしょうか?
820名無しさん@一本勝ち:2008/06/27(金) 18:30:36 ID:nYcdfXgT0
>>819 週2回の練習で、人に「修行をなめるな」というのはダメです。
821名無しさん@一本勝ち:2008/06/27(金) 19:22:29 ID:7x4N+a+A0
>>819
人に向けるのはマナー違反なんですけど
822名無しさん@一本勝ち:2008/06/27(金) 19:32:21 ID:AkGythGMO
型の上で相手を置く時の話だと思うが…
まあそれ以外で人に刀を向けたらいかんね

ていうか>>819の話題とか総合スレに持っておいでよ
ここは初心者スレではないからさ
823名無しさん@一本勝ち:2008/06/28(土) 11:54:41 ID:swdOr4T20
本来ここは実戦技法と歴史検証のスレだけど
技術論に関しては815さんのような初心者の相手をしてもいいと思う。
いろんな流派の意見を聞けるのはいい事だよ。

だけど精神論やマナーの話題に関してはここでは無用だね。
824名無しさん@一本勝ち:2008/06/28(土) 21:22:58 ID:lcjm43cX0
居合道愛好者が使っている真剣は殺傷力はあるんですか?
825初 ◆tMIRGBEae6 :2008/06/29(日) 00:20:05 ID:Xd1X/kxoO
寧ろ、殺傷力のない真剣というものを見てみたいです。
刃引きであっても、突かれたら無事では済みませんが…
826名無しさん@一本勝ち:2008/06/29(日) 02:31:29 ID:5Lkyu9ni0
薬研藤四郎
827名無しさん@一本勝ち:2008/07/10(木) 01:55:19 ID:O0OSyHmN0
>>815
振り始めは右手の人差し指と親指の間の部分で押し出す感じ。柄を握らない。
先っちょが自分の真上にくるくらいで手首のスナップを利かせ、先っちょを放り投げる感じ。
自分のデコくらいの位置まで先っちょがきたら、右手左手の小指・薬指・中指の第一関節に引っ掛ける感じで締めていく。
左手小指側の手のひらの太い線(何ていうか知らない)のすぐ下くらいに一番力がかかるくらいかな?

振り始めたら、刀の行きたいところに行かせてやるのが刃筋が立ちやすい。と個人的な意見。
828名無しさん@一本勝ち:2008/07/10(木) 11:32:02 ID:0ws70SFQ0
居合を正式に始めたのが35歳過ぎ、かれこれ25年続けています
最近年のせいかなにかしら熱が無くなってきました 演武会等の行事も参加しますが
億劫な気分を無理やり奮い立たせて出かける始末です
唯我独尊の高段者、もちろん尊敬に値する先生方も多数いらっしゃいますが
入門してくる若い方々、何を考えているのか理解できない
稽古に来るのか来ないのか? 大会申し込みをしておきながら当日はドタキャン
連絡?一切無し 
自分の生涯の趣味として選んだ居合道であるが、〔お世話〕に疲れました
誰かが運営方をやらなければ団体は維持できません 小さい稽古場の責任者をしていますが
好きな居合であればこそ世話役が出来るのですが、何か重荷を感じるようになりました
つまらないことを書きました

829名無しさん@一本勝ち:2008/07/10(木) 12:46:02 ID:SUTi7ktwO
ルールを作ればいいじゃないですか。若い人には道場のルールを教わらないと、そういう意識無い人もたくさんいると思いますよ。
それかビジネスライクに一回稽古に参加したらいくらいくら、にして基本的に大会等は参加はしないことにするとか。

わたしは居合組織に関係ない古流なんで、正直居合の大会とか興味無く、よくわかりませんが、組織運営大変でしょうが頑張ってください。
830川村景信:2008/07/10(木) 15:24:04 ID:j/XjxopY0
>>774

 景虎兄貴!

 (¬¬;)ヾ
 勝手にヒトのことを書くのはいかがなものかと…。

 MiXi内の管理コミュニティですが、[非公開/許可制]なので、参加者以外に内容は分からない様にしています。
 抜刀術・居合術を中心に武術・武道の相互交流を行っています。
 まぁ、メインは「黒田鉄山師の武術論」と「土佐英信流の成立」「林崎古流の解明」などですが。
 資料も豊富に揃えていますし、田宮流各伝書、林家(後に池田家)の古文献、下村師の日記など
 私が地域調査で見つけたものや師から伝わったものです。

 建設的な議論がしたい方は一報ください。

 私は英信流下村派や諏訪流、神道無念流、自見夏原流など十七流儀を稽古しております。
831名無しさん@一本勝ち:2008/07/10(木) 15:35:10 ID:ClIhIsCp0
三木市はあきちゃった
832川村景信:2008/07/10(木) 16:45:26 ID:j/XjxopY0
 どんなことをやっているのか、投稿の一つ提示しておきます。

 少々私見を書かせていただきます。

 まず、居合術の変遷と日本刀の変遷は勿論、別々の存在として成立したわけではありません。そして黎明期の居合術は太刀佩様式の時代から存在していました。
 仮に、林崎甚助師以前の流儀を上古流と呼ばせていただきます。上古流の抜刀法では、鯉口を上方に向けて右肩を庇う様にして抜き出し、そうしながら鯉口は左下方に押し出す様に行います。
 これは私が稽古している諏訪流の抜刀法です。戦場での抜きつけの場合は庇いと、比較的甲冑部分の少ない下方からの太刀筋を行っていたようです。
 これに対して林崎師の抜刀法は、太刀佩様式でありながら、まったく異なった抜刀法を行います。佩かれた太刀は、腰の結び目を中心として刃が上向きになる様に返します。
 この時、太刀は鳩尾の位置になり、胸元で抱く様な形に収まります。これが林崎師の弟子の代になると、一変して打刀を使うようになります。しかし、打刀になっても、林崎師の居合術は明確に受け継がれます。
 古い田宮流の文献には『鳩尾ノ通リニテ』とあり、近代の帯刀法よりずっと鞘は前に出ていました(丁度、鯉口を持った状態で肘が鳩尾の前に来るぐらいです)し、居合術における抜口も高い位置になります。
 この状態では「返り角」は絶対に掛かりません。この状態での柄当や鞘の送り出しは近代の居合術と同様の使い方が可能になります。
833川村景信:2008/07/10(木) 16:46:10 ID:j/XjxopY0
打刀における「返り角」というのは、二つの用例により必要不可欠のものと位置づけられてきました。用例の一つは馬上においての必要性です。馬上における抜刀では、手綱を握った左手は使えません。
 「ふんぬんで」と形容される様に、一度鞘を帯の下に押し下げ、「返り角」を帯に掛からせてから抜く事になります。これが当初の用例です。そしてもう一つの用例は刀を抜いた後にあります。
 腰の後辺りまで送った鞘はそこで固定し、躰捌きの障害にならぬ様に努めました。
 さて、もう一つ当時の用例としてあるのが「帯取」の用例です。林崎師と田宮平兵衛師、長野無楽齋師の三師の頃は『上帯』と称する帯を使って帯刀していました。この上帯とは、六尺の麻布に布の小切れを入れたものです。
 それを二重にして右の腰付近で結束します。
 武士の間では、江戸中期頃からすでに「返り角」を廃するようになってきました。多分、その頃と思われますが、居合術でも『上帯』を廃していった傾向があります。そうして多くの流儀が、近代の居合術へと次第に変革していきます。


 以上、支離滅裂なる駄文、長々と失礼しました。

 なぜそうなのか?
 と言う疑問は参加者以外には提示しません。
834692:2008/07/10(木) 20:41:55 ID:EAWhrZt70
>>830
17流儀ってすごいっすね・・・

併伝とかも含めての数字なのかなぁ。
835名無しさん@一本勝ち:2008/07/10(木) 21:07:15 ID:HFIHbFJOO
諏訪流で検索すると出てくる刀武神道やら等速度廻周運動やらいう単語を見る限り
どうも眉唾物ではあるが
水を差す気も無い
836川村景信:2008/07/10(木) 23:27:43 ID:7y5rF8eb0
>>834

 勿論、併伝や別系統を含めてです。また、「稽古」していると申したとおり、
 修めた訳でもないので、本格的に師家を目指す兄弟子に比べれば、ただ漫然とやっているに過ぎません。

 たしか、綿谷雪氏の『日本武芸流派辞典』だったと思いますが、

 諏訪流(剣・小太刀・当身・小具足・槍・三道具)
 北条流ともいう。(撃剣叢談)。北条氏康の臣、方波見備前守。方波見は「ナミアイ」と訓むのが正しいか。波合と書いた例もある。仙台藩に伝承があった。

 この様な記述があります。勿論これは大部分で誤りですが、
 仙台藩に入ってきた影山流は、それまで隆盛していた既存の流儀を悉く滅亡させて基盤を作りました。
 これにより諏訪流や林崎流などは断絶し、一部の村落で細々と伝えられてきました。諏訪流を伝えた私の家も武家出身ではなく、
 帰農して土着した伝承者の家系です。

 山本勘介と並ぶ兵法上手と言われた流祖ですが、13人を相手に奮闘し、7人まで切り伏せた処で、残り6人に追われ命からがら逃げ帰ったという逸話があります。
 流名でもわかりますが、祭っている諏訪大社の祀神タケミナカタは、フツヌシとタケミカズチにこっぴどくヤラれます。
 林崎甚助師とも足利将軍の前で御前試合を行いますが、結局敗れ、勝った甚助師は「信国」を賜ります。
 そして前述の影山流と、一流を立てて以来、「敗け続け」の諏訪流になります。

 100年間負け続けて後、命を狙われればヒネクレた流儀になるのも無理はないと思うのですがどうでしょうか。
 ヽ(*’-^*)。
837名無しさん@一本勝ち:2008/07/10(木) 23:56:38 ID:gM11LWOD0
林崎師の抜刀法は、太刀佩様式とあるが
もともと打刀方式だったのではなかろうか?
たしか北条の臣は胸間にて帯刀と読んだ気がするが、太刀だとちょっと変。
838川村景信:2008/07/11(金) 00:56:35 ID:rPN18js/0
ご指摘の通りです。

 誰も指摘しないのでイジケていた処です。σ(゚ー^*)

 林崎甚助師が用いたのは「柄長八寸・鍔先三尺二寸・中程に刃毀れを生じた鞘黒塗の「打刀拵」の太刀」です。
 これは転売された後、二人目に入手した函館中学校長の帳面にちゃんと記録されています。
 林崎師は当時流行し始めた「打刀」を用いていた。
 これは揺るぎません。弟子の田宮師は打刀です。ではなぜ「太刀佩様式」だったのか。
 私が言うのは打刀を特殊な結び方を用いて、太刀佩様式の様に行う特殊な用例を行っていたということです。
 この用例では、結び目は栗型をを離して鞘の二箇所で結ばれ、引き抜くことも刃の上下を返すことも可能です。
 そして田宮師や後代の流儀ではこの用例を廃しています。
839川村景信:2008/07/11(金) 01:01:08 ID:rPN18js/0
 これらの方法は古い林崎流の伝書に記載されています。実際に見ないとイメージしづらいと思います。
 ただ、私は手元にある伝書と型からこのようなものだったと考えています。
 江戸期にこの方法が廃れたのは、甲冑様式や太刀佩様式が事実上故実になってしまったからだと考えています。
 mixi参加者には用例こそ見せては居ませんが、『下緒についての考察』の中で歴史的な変遷を含めて実用的な意味まで解説しています。
 こういった問題に就いて論じるなら、当コミュニティに来て頂いた方が良いと思います。
 資料や写真など、公に出来ないものを多分に公開しています。
 個人の特定を恐れるなら、捨てアカウントでも作って頂いて結構です。
 他の参加者が容認するかは分かりかねますが。
840名無しさん@一本勝ち:2008/07/11(金) 01:51:38 ID:6/wH6b6Q0
>>827
振り始めは右手を使って、振り終わりは左手を使うという事ですか?
常に両手に力を入れて刀を振る訳じゃないんですね。
ありがとうございます。参考になりました。
ちなみにこの振り方は流派によって違ってくる訳ではなく、居合では普遍的な方法なんでしょうか?
841雨龍景虎 ◆1k/pfLft2. :2008/07/11(金) 02:40:40 ID:azaHYdRD0
>>川村氏
これは失礼しました。
・・・っていろいろ書き過ぎですぞー(゚Д゚≡゚Д゚)いいのかー!?
842名無しさん@一本勝ち:2008/07/11(金) 06:14:08 ID:Kc57DUS/0
>>840
洗練されると行き着く先(結果)が同じになるという意味では普遍的だが
振り方の指導は流派によって違うと思います
843 ◆ap5M8aZ8yI :2008/07/11(金) 06:39:36 ID:vn2EAT/uO
>>川村さん
林崎師が太刀だったの意味がわかりました。室町や江戸期にあった、下緒で打刀を太刀のようにはく方法ということでしょうか?
わたしは文献でしか見た事はないですけど。

それだけ知識がおありなら論文でも書いて武道学会で資料紹介されたらどうでしょうか?

古い林崎流の資料はあまり無いようですから。大体の田宮初代ころの体系は諸流の比較でわかってますが。

私個人としては、高橋賢が指摘したように居合と小具足術の関連に興味があります。
確証はないですが、居合と小具足術(脇差を使った居取、居合)は同種の武術とは言えないまでも、根っこは同じかな、と。
844川村景信:2008/07/11(金) 08:56:08 ID:by1Vr1G60
>>843

 質問ありがとうございます。

 コミュニティでの説明部分を抜粋すれば、

 林崎師は、栗形から二、三寸離したところで『上帯の緒(紐)』を結束し、それを鞘尻付近まで移すことで左肩に背負います。
 これは雨龍氏が行う方法で、鞘尻が『上帯』で括られるため体側に沿った容に変化したものです。
 『下緒』は左肩を通って上記に言った下村派の結束の状態(右腰付近で下緒を結束する用例)になります。

 となります。「下緒」及び「栗型」を用いてしまうと、鞘の結束部位が絡まり、太刀を抜き出す事はできません。
 「下緒」についてですが、変遷の過程から私は「太刀緒」が変化したものを「大き下緒」と呼び、「犬まねき」が変化したものを「小さ下緒」と呼んでいます。

 私は現在、学生であり国家資格を有する特殊な職業家です(安月給ですけど)。
 研究は趣味の一つでしかなく、学者としてやっていく気もないので態々公向けに論文を書くようなことは考えていません。
 武道学会とやらが、たかだか20代前半の若造にどうにか出来る場所なら、なおさら私は興味がありません。

 私は専売研究が目的ではありません。方法論を提示して、地方に居る修行者、特に学生の修行者を主体とした相互研究のモデルを作りたいと考えています。
 その足がかりとしてmixiにコミュニティを開設しています。
ヾ(。・ω・。)
845名無しさん@一本勝ち:2008/07/11(金) 09:58:16 ID:ElpXJFuQ0
居合術は、林崎のように柄に妙にこだわるところと、そうでないところが
あるように思うのですが。
846川村景信:2008/07/11(金) 12:38:59 ID:by1Vr1G60
>>845

 参考になるかは分かりませんが、私見を述べさせて頂きます。

 林崎流では本来『長柄刀』と言って長い柄、長い刀を重視してきました。
 しかし、現代までの系譜の中では重視しない流儀も多く存在します。
 私は、江戸記に「刀剣寸尺の令」が出されたことが関係していると思います。


 ○林崎系で「長柄刀」を重視する流儀を見ると、

 奥山観禅師の林崎夢想流→山形県新庄藩
 笹森建美師の神夢想林崎流→青森県弘前藩
 寺山竜夫師の林崎新夢想流→青森県弘前藩
 私の林崎古流→宮城県仙台藩
 英信流→土佐藩(細川義昌師を含め、土佐藩士の現存写真には長柄刀が多い)

 現存したと考えられるのはすべて「外様」の藩になります。
847川村景信:2008/07/11(金) 12:40:43 ID:by1Vr1G60
>>続き


 ○重視しない流儀

 流儀が確立してからの田宮流→紀州藩
 民弥権右衛門の民弥流→尾張藩
 和田平助の和田流→水戸藩
 長野師以降の無楽流→井伊彦根藩(彦根藩に伝承は無い)
 東北の一宮流→松平会津藩(一宮流を伝えたが「長柄刀」は伝承された痕跡が無い)


 こう見ると、親藩家・大老家では「長柄刀」は伝承されてなかったと見れると思います。
 他に大太刀を使う景流や円心流も「外様」藩で伝承されています。
 外様には幕府の目が届かないので、ある程度許容されていたようです。
 徳川家に近い大藩で法破りを恥としたのか、転封・改易を恐れたのかは知りませんがこれらの藩では謀反の疑いを恐れていたのだと思います。

 稚拙な考えで申し訳ございませんが、参考にして頂けると幸いです。
848八郎:2008/07/11(金) 23:27:51 ID:5dJeMmGO0
川村氏乙。少し面白くなった。

田宮も戦場では勝吉よりの長柄の一儀を伝えたと言う。
「長野武道家にて長柄刀差しけり」つまり無楽斎以前から
長野家は、もともと長柄ではなかったかとオイラは考える。。
それに付き従った上泉権右衛門の民弥流も当時は長柄だったと考えるのが自然であるべい。

林崎が鞘中に敵を受け取合するのに対し
佩刀の寸尺を短めたのは小関口以降の頃だと言われる。
849843:2008/07/11(金) 23:49:51 ID:Tq+1PVNO0
おっしゃるとおりとは思いますが、謀反の疑いだとか、それほど厳密なものではなかったと思います。

江戸時代も後半に入ると、幕臣にも平山行蔵やその影響で勝小吉のように長寸の刀を帯びる人も出てきています。
稽古では長寸を使うが、普段の帯刀は常寸、という話もいくつか聞きますし、案外調査がすすめば親藩や譜代で長柄を使っている流派も出てくるかもしれませんよ。
熊本の関口流抜刀術、関口新心流宗家の伝承なんかを見るに、江戸で伝承された渋川流の居合には長柄刀(長尺刀)を使用する考えが残っていたんじゃないのか?と思います。
平山行蔵も渋川流の門弟ですしね。
850843:2008/07/12(土) 00:00:34 ID:Gx+CDbP40
しかしお若いですね。なぜ学会についていい印象をもたれていないかわかりませんが…
在野に研究者が増えるのはよいことだと思います。活動がんばってください。

ところで専売研究とはなんでしょうか?
よろしかったら教えていただけ無いでしょうか?
851名無しさん@一本勝ち:2008/07/12(土) 01:03:34 ID:PuvDBl0P0
>>840
振り方は流派によって違うかもしれません。
一つの流派でも、型の時の振り方と試斬の時の振り方を換える人もおられます。
ただ、手の内はそんなに変わらないかと。

手の内を効かすのは、斬る対象物に当たる寸前から、刀が止まるまでの間だけです。
放り投げた切っ先が手の内を効かす事により、手前に戻ってきますので、結果引き斬りになります。
それ以外の時は小指・薬指・中指の第一関節に引っ掛けて、刀はふわっと持っています。振りかぶりの時もです。
振りかぶって止める際は、古流はそれでいいのですが、制定の場合は左手小指のみ締めておくのがいいかも。
上では人差し指について書きませんでしたが、切っ先が余分に流れてしまうと思った時だけ第一関節の部分で止める力を加えています。

すべて個人的な意見ですので、間違った認識がありましたら教えてください。
852川村景信:2008/07/12(土) 01:28:35 ID:Xf+3r+Mq0
>>848

 投稿ありがとうございます。

 林崎師は「打刀拵」の太刀であったことは既に述べました。
 弟子の田宮師や長野師はどうか。両師とも「長柄刀」を用いたという記録があります。
 これらは林崎流の用いる太刀の『異様さ』として藩史に記録されています。
 しかし民弥師について、尾張藩ではそれらしい記述が見当たりません。
 とすれば、民弥師は長柄刀を差さなかったかもしれません。
 鉄山師によれば、正好師に流儀が伝えられた時、
 林崎流の『表七本』―記述から私の「表七本之次第」と同様と考えられます―を伝えられた、
 といいますから、或いは「長柄刀」を用いたかもしれません。

 しかし、今は「分からない」としておきます。

 長野師はその出自から、流浪した時期が二度確認されています。
 実際には幾度もあったかもしれません。
 いつ弟子を取って、いつ稽古したのか。
 これは林崎師にも通じる話です。
 東根師に就いて学んだ時、
 林崎大明神から信託を受けた時、
 開国修行に出た時、
 晩年林崎師に就いた関口師が与えた影響はなんだったのか。 
 
 これらについては私のコミュニティで考察しますので、ここでは述べません。
853川村景信:2008/07/12(土) 01:29:58 ID:Xf+3r+Mq0
>>843


 当時当時の律令がどれほどの効力があったかは私にも分かりません。
 しかし、幕府が衰退する江戸後期と、転封・改易が行われた徳川三代までの頃ではその重みも違ったのではないでしょうか。
 この三代の在任中に処分されただけでも、外様大名で82家、親藩・譜代大名で49家にも上ります。
 これらの処分で各大名家は十分、恐怖を植え付けられたと思います。
 勿論、調査が進めば「外様」「譜代」「親藩」で分けることも出来ないかもしれません。
 ただ、理由はどうあれ江戸初期までの間に殆どの流儀・武士は「打刀」に変えざるを得なかった。
 これは事実です。

 私が考えたのは一面的な考えですが、それで全てを説明できるとは思っていません。

 また、「江戸期も後代になると〜」と考えたとき、
 約200年間の隔たりは技術が「失伝」したと見れると思います。
 『平子龍先生遺事』には平山師が二人の暴漢に襲われた際、
 直ぐには抜けなかったと書かれているそうですから、
 師にとって実用的ではなかったかと思います。
 「長柄刀」「長尺刀」が武士にとってどんな存在だったのか。
 技巧面に及ぶ論はここでは避けたいと思います。
 実用的な「長柄刀」の技術の復元、これも私の研究の一つでも在ります。
854川村景信:2008/07/12(土) 01:33:06 ID:Xf+3r+Mq0
>>843

 「専売研究を目的としない」とは、私が研究を生業とする気がないということです。
 私は自らの研究を公表することを望みません。
 私が持つ情報、持つ資料が多くの研究者に混乱を招くことを知っているからです。
 私が欲しいのは「情報」です。また、私の研究・稽古に耐え得る人材です。
 それは不特定多数ではありませんし、付き合う人間は取捨選択したいと考えています。

 私は公人(研究者)ではなく私人(修行者)です。
 誰かの研究に貢献しようなどとはまったく考えていません。
 私は私個人が納得するに足ればいいのです。
 自分が行う研究は業の向上を補う一義以外にないと思います。

 まぁ、理由を付けましたが、「発表した論文に難癖を付けられるのがイヤ」というだけかもしれません。

d(゚ー^*)
855名無しさん@一本勝ち:2008/07/12(土) 01:51:59 ID:4JkNPKJp0
>>853
>  ただ、理由はどうあれ江戸初期までの間に殆どの流儀・武士は「打刀」に変えざるを得なかった。
>  これは事実です。

横レス失礼、門外漢なので読み流してください

ふと思ったんですけど、太刀を佩いたり外したりって手間だった気がします
戦国の世はまだ混沌として、城内等でも、余程自分より目上の者に会う時以外は
太刀を佩いたままでも許容されていたって事はないでしょうか?
それが江戸期に入り「もののふ」から城勤めの役人となり
城内での刀剣類の規制が厳格になると、
城の出入りで、一々大刀を佩いたり(差したり)外したりする必要性が出て
打刀の方が楽であることに気が付いた
そして、その現実に各流派も対応を迫られた

な〜んて妄想しましたw
856名無しさん@一本勝ち:2008/07/12(土) 02:07:48 ID:78168S1Y0
>>854
>私は自らの研究を公表することを望みません。
>私が持つ情報、持つ資料が多くの研究者に混乱を招くことを知っているからです。
>私は私個人が納得するに足ればいいのです。

お若いのに拘わらずよく世間を理解していることにびっくりしました。
貴方の説が従来の常識と異なれば異なるほど、攻撃をする人が殆どです。
20年30年かかっても1割の支持者も得られないのが普通です。
学会等に公に発表すれば、一生多大な時間の浪費を強いられ、非常に不愉快な
思いを沢山することになるだけです。
私家版程度に留めるのが利口です。

857名無しさん@一本勝ち:2008/07/12(土) 02:13:12 ID:lmqVleDfO
実用的な長柄刀の技術を復元するというのは、
例えば現存する林崎流には
そういう技術が伝わっていないのだろうか
858川村景信:2008/07/12(土) 02:55:05 ID:Xf+3r+Mq0
>>855

 そうですね。あながちそうだったのかもしれません。
 (*^-^) /

 私も「太刀取り」というのは武士にとって面倒なものだったと思います。
 今でこそ『礼儀作法』として太刀を外す様に思いますが、その初源は「邪魔」だからです。
 今よりは広いと言っても、室内での太刀佩きは明らかに邪魔なものです。
 これと同様に、下郎が室外で取り次がれるのも、その方が効率が良かったからです。

 はじめ、打刀が普及するのは平服、つまりオフの服の時です。
 これは明らかに煩わしいと考えていたからではないでしょうか。
 太刀から打刀へ変遷する一時期、「腰の板」と言って打刀を太刀佩きにする器具が用いられました。

 私は「打刀」になったことで技術の質的な転換が起こったと考えています。
 ある「条件」によって、それまでの「太刀」の抜刀術は「打刀」の居合術へと変化し、
 急速に発展した。しかもそれは単に坐姿による「居合」というだけではなかったと思います。

 この話もコミュニティ内で展開するので、ここではやめておきます。
859川村景信:2008/07/12(土) 03:06:21 ID:Xf+3r+Mq0
>>856

 なんといいいますか、ありがとうございます。m(_ _)m

 私は10年以上研究・稽古をしてきました。その間、学校生活では「異端児」と呼ばれ、
 研究の場では一部の支持者以外、多くの師範・研究者から虐げられてきました。
 研究成果も「大家」に位置する先生方に奪われたことも侭あります。
 騙され、多くの情報を奪われ、改竄され、自分の研究結果にする研究者に遭いました。

 雑誌や論集への寄稿依頼などもありますが、
 最近では公に発する全てのメディアからの要請を拒絶しております。
 私に身銭を切ってまで私家版を出すほどの自己顕示欲はありません。
 そんなお金があったら、私論を論破し、対論する「仲間」との交友費(飲み代?)にしたいですね。
 (●^□^●)
860川村景信:2008/07/12(土) 03:26:47 ID:Xf+3r+Mq0
>>857

 どの流儀に伝わっている・伝わっていないという論は避けさせて頂きます。
 「どの流儀が〜」というのは私には分かりかねます。
 私には、真に対応し得るか、その技術を信用するに足るかという主観しかありません。

「分からないものを探求する」ただ、それだけです。
 「分からない」ということは無限に考え得られるということです。
 つまりは、目標を高く定めるのに咎めは無いということでもあります。

 古流を学んで「○○流はこうだ!」というものを求めているわけでもありません。
 ですから、私はどの流儀に入門したとしてもある『約束』をしています。

 「絶対に師家として立たない」
 「流儀を背負わない」
 「弟子を取ってその流儀を教授しない」

 なぜなら、「私個人が納得すればいい」からです。

 若しかしたら『ルパン三世』の五右衛門の様に振舞えたとき
、私は始めて「私個人が納得するに足る」と感じるかもしれません。
 若しかしたら「今の古流居合こそ至上な存在である」のかもしれません。
 まだ、私にはそれらのことはわかりません。

 「わからないこと」を考えれば考えるほど、言い知れぬ期待に胸が躍ります。

 ただ願わくば、私の家で伝える諏訪流の「500年間無勝」という記録だけは払拭したいですね。
 
 お答えになったでしょうか。
 稚拙な文章で申し訳ございません。
861名無し@そうだ水戸へ逝こう:2008/07/12(土) 03:58:00 ID:dbaBhJihO
東武館 最強居合道業

「腰抜け」

これが今だ出来ない方はどうぞ学びに来てください。
常識ですが、賂として菓子折りとお金(多額の現金を札束で)を忘れずに持参すること。
862八郎:2008/07/12(土) 11:50:33 ID:uVhyerJS0
>>852
返答どうもです!
個人的な考えでは「長野武道家にて長柄刀差しけり」の1文を考えると
長野家には無楽斎の玉出修行以前から林崎流が取り入れられて
いたのではないだろうか?って事です。
そうすれば大胡武蔵が子孫の孫次郎に新陰では無く居合を学ばせた理由も
北条時代繋がりで自然ななりゆきだったと思います。まあ、推測ですがね。
(ところで玉出って何県でしょう?調べたけどワカランです)


尾張若林流(民弥流)については当時の具体的な用法はわかりませんが
夢想流(若林流)伝書に腰刀三尺三寸、柄口六寸。
口伝歌に「せわみにて勝を取るべき長がたな」との記述もあるので当初は
長刀ではなかったかと思いまつ。
後に権右衛門は長短一味をかかげる紀州田宮流を取り入れているので
変化が出るとしたらこの時期ではないかと思います。
もっとも晩年は無刀でしたが(笑
863川村景信:2008/07/12(土) 13:38:11 ID:LBG6ElN40
>>862 八郎様

 良く研究されていて、頭が下がります。

 上泉孫次郎師についてどこまで歴史学者が認識しているかわかりませんが、
 師は新陰流を学びました。実は師の系統の新陰流目録も残っています。
 しかし、孫次郎師は嫡流ではありません。
 恐らくは姻戚の関係で正式に名乗らせることが出来なかったと推測しています。
 そこで、同郷の主格である長野師に預け、
 居合術の師家として立たせようとしたのではないでしょうか。
 当時、長野師が居合術を研鑽していたのはあまり知られていないことです。
 その他の弟子は長野師の家人だったともいいます。

 ここに『居合師弟問答』という書があります。
 これは二世・片山伯耆久隆師と弟子の岩佐吉純の対談を筆記したものです。
 居合術といえば当時は林崎系が全盛の時代です。
 片山初代は自流を林崎系ではない、と言うものの巷間には
 「片山流は林崎の末」と流布されている。
 久隆師はその疑問を解消するため、林崎系の居合術と自流を比較した。
 それがこの書の目的だったと考えています。
 引き合いに出されるのは田宮流・関口流ですが、
 長野師の名は見当たりません。これは彦根藩でも伝承を見なかったように、
 長野師自身がその存在を隠したためではないでしょうか。
864川村景信:2008/07/12(土) 13:41:29 ID:LBG6ElN40
>>続きです。

 一部抜粋します。
 ↓
 今居合は、田宮・片山・関口の三家を以て、殆んど此道の宗となす。
 所謂三鼎の如く、之を習ふも亦天下三分也。

 (中略)→以下、中略部は()

 凡そ田宮流と号て之を教ふる者、()其太刀の長くして甚だ重く、
 非力の士は挙ぐること能はざるが如し。
 之を抜くときは、左足を蹉座して右足を夷居す。
 之を名けて居合膝と謂ふ。
 ()既に発するときは、右足偏り左足を軽くし、其頭を前に懸け、其腰を浮く。
 之を名づけて浮身と号す。
 ↑

 同時期の師家で林崎流の研究をした久隆師も、長野師の存在は知らなかった。
 ここで注目すべきは田宮流の考察部分です。
 「長い太刀」を用いたこと、黒田師が提唱する「術義用語」が散見しています。

 これらがどんな意味を持つのか、
 長々と斯きましたがあとは想像にお任せします。

 私が行っている研究についてですが、
 これについて詳しくは私が監修するブログ
『天狗古爺洞blog』の「HP製作記2」に詳しく書いたつもりです。

 疑問とされる「玉出」の地名ですが、週明けに大学で探してきます。
865名無しさん@一本勝ち:2008/07/12(土) 16:27:42 ID:4JkNPKJp0
866名無しさん@一本勝ち:2008/07/12(土) 16:33:43 ID:4JkNPKJp0
大阪の清水寺に「玉出の滝」があり修行をされる方も居られるようですな
ttp://www.y-morimoto.com/s_saigoku/s_saigokuK1.html

これまた関係なさげだw
867川村景信:2008/07/12(土) 20:59:18 ID:h7NpKtu20
 >>865

 大阪の「玉出」は明治以降の土地改正で出来たの関連は無いでしょう。
 そこにも書いてある通り、このあたりは元は勝間村です。

 >>862 八郎様
 一応、私の古代地理のデータベースで二件ヒットしました。
 一つは奥の澤の「たまひで」郷です。
 奥の澤は和歌山県ですから「紀州藩」になります。
 もう一つは伊賀上野の玉滝付近にも「たまいで」という地名があります。

 他にも考えられますが、古典資料の探しがてらに大学の検索エンジンも使って
 探してみます。

 鳩氏という御仁はいらっしゃらないのですか?
 >>776についてお聞きしたいことと、話しておきたいことがあります。
868八郎:2008/07/13(日) 00:16:52 ID:mZiUcqMD0
>>865氏、川村氏ありがとうございます。
なるほど長野のネットワークを考えると紀州なればいい感じですね。
少しでも目星が付けられるのはありがたいです。感謝。

オイラが長野を重視するのは1つは徳川の精兵井伊家箕輪衆の武将であった事。
もう一つは天保年間に書された林崎タミヤ流居合指南書の禁剣口伝部分と思われる
重要な箇所に無楽斎の名がいきなり出てくる事です。

田宮の長刀についてはおっしゃるとおりだと思います。
一寸長きは一寸の利有りです。
だけどそれとは別に「我が遣いにくき刀を朝暮・・・様々粉骨を尽くして遣い、
又、遣い良き刀は・・・心に叶不と言う事無」
「指料はたくましく丈夫なるを好物也。見分宜しと言共、
自分片手にて自在にさがすようにせねば指料にあらず」と、
間合や体力、環境条件によって刀の長短の遣い勝手を論じてもいます。
意外とすんなり長刀から短寸へ移行できたのではないかと個人的に推察します。

居合師弟問答は・・・まあ、要するに田宮流は長刀を抜く奇襲居合で
立膝は筋骨四肢を曲げ偏らせるという批判ですかね。
869 ◆ap5M8aZ8yI :2008/07/13(日) 00:42:33 ID:2/ZcRp39O
>川村さん
私が以前鳩と名乗っていたものです。なんでしょうか?
私の英信流の知識は発表されてる文献に基づいてますから対して深い事は知りませんがそれでよろしければ。なにか教えてくださるなら嬉しいです。

あと土日はあまりネット見てないので返事が遅くなると思います。
870川村景信:2008/07/13(日) 01:04:29 ID:9AY5kfb20
>>868 八郎様

 私も3年ほど前までは『師弟問答』に興味はありませんでした。
 しかし、これを批判文とみるのは安易に過ぎる様に思います。
 この本から分かるのは、久隆師は論理的にものを考えようとしたということです。
 師の考えが、その後の流儀をどう決定付けたのか。

 江戸中期以降、爆発的な普及を見たのは「伯耆流」です。
 古い居合の入門書には広く別伝として伯耆流が書かれていました。
 それは明治の居合書にも受け継がれます。
 久隆師の戦略は見事に的を得たものとなった。

 「夫れ田宮・関口は幸にして禄を食み…」
 この愚痴めいた語り口は、長兄である久勝師が早々に片山家を飛び出したこといい、
 名声とは裏腹に窮地に居た師の境遇を見ると
 感慨深いものがあります。

 (^−^ )

 林崎師が興したものを「抜刀術」とすれば、田宮・長野両師は「居合術」を完成した。
 私はこう考えています。
 歴史的な事象を考えた場合、私は八郎氏とは逆に、田宮師がキーパーソンだったと思います。
 後世の林崎系は大なり小なり、田宮師の影響を受けています。
 師がどのような手続きで流儀を確立するに至ったのか。
 それについてはもう少し考証の余地を下さい。

 同じ人間について研究するのも面白くないので、
 私は八郎氏に対する容で田宮師を掘り下げようと思います。
871川村景信:2008/07/13(日) 02:11:03 ID:9AY5kfb20
 >>869 ◆ap5M8aZ8yI様

 御返事ありがとうございます。

 まずお願いしたいことが二件あります。

 一つは、私の管理コミュニティに参加して頂きたいたいと思います。
 氏について詮索もしません。
 他の参加者も詮索は嫌っておりますので大丈夫かと思います。
 強制はしませんが、出切れば良い返事を期待しております。

 そしてもう一つ、過去に鳩氏が>>776で投稿した内容について、
 そのソースが分かり次第教えて頂けたら幸甚です。

 話しておきたいこと、とは以下に述べる内容です。
 氏が提示した資料は私にとって喉から手が出るほど欲しい「情報」になります。

 以下の内容は私も流儀に関わることなので、
 核心に触れる場合はメールを使って遣り取りしたいしたいと思います。

 信州系資料には天明六年に、大矢弥五兵衛尉師が瀧澤武太夫師に発行した
『居合根元之序』が存在します。

 この伝書には含まれない内容で、
 英信流下村派の『居合根元之巻』には以下の記述があります。

 ↓
 貴賎尊卑を以って隔て無く、
 前後の輩を謂はず。
 其の所作に達せば
 目録印可等を許すに相違なし。
 ↑
872川村景信:2008/07/13(日) 02:12:16 ID:9AY5kfb20
>>続き

 これを補う形で、この様な話があります。

 ↓
 当流七代目には上級武士であった弟子と、
 貧乏浪人で世間から「偏屈」と噂されるほどの変わり者であった弟子がいた。
 兄弟子であった上級武士は弟弟子を嘲笑し、
 周りも上級武士の弟子が跡目を継ぐと思っていた。
 しかし、七代目は貧乏浪人の弟子を選びこの言葉を残したと伝えられる。
 ↑

 当流の伝書では、

 ↓
 此の居合と申すは大森六郎左衛門之流也。
 英信流と格段意味相違無き故に話して後に守攻翁是を入れ候。
 六郎左衛門は守攻先生の剣術の師也。
 ↑


 とあり、前述の話は「荒井勢哲師の師」とだけ伝えられていました。
873川村景信:2008/07/13(日) 02:13:15 ID:9AY5kfb20
>>続き

 それ故、「英信流と格段意味相違無き故に」というところから、

 大森師の師=長谷川英信師=荒井勢哲師の師

 と思われてきました。
 実際には長谷川英信師が居合術を伝えた根拠は無く、
 もしかすると『別の師』から伝えられたのではないかと考えられます。

 この『別の師』こそが鳩氏が書いた「田宮某」ではないかと推測します。

 ※鳩氏以外、この話のソースは伏せさせて頂きます。
  内容も多少イジッておりますので、このままでは使えない情報です。

 【追記】
  
 コミュニティ参加者から、捨てアカウントでの参加は許可しないとの旨承りました。
 参加希望者は自分のアカウントを以って参加要請してください。
 当コミュニティは相当内容を濃くしています。
 ここで述べているのは一般に流布する資料でしか述べておりません。
874川村景信:2008/07/13(日) 10:44:51 ID:F+jt9D6i0
>>八郎様


 研究仲間から横槍が飛びました。

 長野の家人で師事した一宮左太夫が長尺刀を差したのは周知の事実である。
 孫四郎には井伊家寄食の記述もあり、大森流の切紙には連名がされている。
 とすれば当然、同時期に師事したと考えるのが筋だ。
 なれば孫四郎が長尺刀を差したと考えるのに不自然は無い。

 記述が無いと言っても、孫四郎は確認されている以上に変名が考えられる。
 藩庁文書だけで安易に結論を出そうとするのは無理。

 尾州と紀州の文献まだ見てないので、
 もう一回、民弥権右衛門師について洗い直してみたいと思います。
 まだ他にも権右衛門師らしき記述が散見しているそうです。
875八郎:2008/07/13(日) 11:23:39 ID:mZiUcqMD0
なるほど、古語曰、貴賎尊卑無隔謂前後輩にはそういう意味が有ったんっすね。
今まで読み飛ばしていました・・・orz

>田宮師がキーパーソンだったと思います。
オイラもそう思います、無楽斎自身が田宮流or林崎を称していましたし。
個人的な興味で猛将長野の兵法に興味があっただけですので
民弥つながりで少し振ってみました。すんません。

ところで>>863の上泉孫次郎伝の新陰流目録とは利方の討太刀目録でしょうか?
連也兄弟は父の面前で孫四郎方から直接燕飛を学んだと利方が晩年書き残しているそうです。
876名無しさん@一本勝ち:2008/07/13(日) 11:47:22 ID:mZiUcqMD0
>>874川村氏

あ、すいません。打ち込んでる間にレスが入っていたんですね。
打ち込みがメチャクチャ遅いもので(笑
大森流切紙の連名と一宮左太夫が長野家人だったことについては初めて知りました。
良いお仲間をお持ちですね。

孫四郎の変名は晩年の民弥しか知りません。母はたしか北条家でしたね。
無楽斎の変名については匂坂、浜川などではないかと言われています(2ちゃん情報w)
877川村景信:2008/07/13(日) 12:14:47 ID:F+jt9D6i0
 >>八郎様

 >なるほど、古語曰、貴賎尊卑無隔謂前後輩にはそういう意味が有ったんっすね。

 同じ英信流を名乗っても、「伝書も発行しない・意味も教えない・謂われも言えない」
 では本流とは言えないと思います。
 私は現在、「目録」に相当する伝書まで発行されていますが、
 “師匠(師家)”には死んでもなりませんd(^^*)
 勿論、稽古会・研究会でも絶対に教えないです(今回は鳩氏と情報交換のために止む無くです)。

 >ところで>>863の上泉孫次郎伝の新陰流目録とは利方の討太刀目録でしょうか?
 >連也兄弟は父の面前で孫四郎方から直接燕飛を学んだと利方が晩年書き残しているそうです。

 恥ずかしながらこの話は知りませんでした。
 尾張藩には上泉権右衛門師を祖とする影流の系統及び伝書があったと言います。
 また、他藩から新陰流を学びに尾張に来た剣士も、上泉権右衛門師から発行された目録を持ち帰っています。

 上泉家の資料には、上泉氏に従い長野師が放浪したという記述があるそうです。
 とすれば、権右衛門師を預けたこと、一宮師が追従したこと、なども納得がいきます。
 その流れで羽州米沢領や会津領に逗留したことから、
 居合術の師家を乞われて長野師は一宮師を米沢領においたのかもしれません。

 このことは、諸田氏の『剣聖上泉信綱詳伝』今村氏の『史料 柳生新陰流』に記載されているようですし、改めて見直してみたいですね。
8788郎:2008/07/13(日) 18:10:03 ID:mZiUcqMD0
なるほど、権右衛門が独自に影流目録を発行していたのは知りませんでした。
現在でも尾張新陰で影流との比較用法が伝わっているのはこのためかもしれませんね。
利方、連也への燕飛伝授については柳生厳長先生の本に少し書かれています。

ところで英信の太刀打位が影流を冠してると耳にしますがこの権右衛門の系統でしょうか?
たしかに大森流や太刀打位には新陰や神道流に似た構えが少し有りますね。
例えば受流(流刀)での刀を脛に取る動作とかね。ちょっと珍しい構えです。

自分は小栗→朝比奈ラインかな?と思っていたのですが大森六郎からでしょうか?
2ちゃんでもさしさわりが無かったらご意見下さい。
879 ◆ap5M8aZ8yI :2008/07/14(月) 09:16:17 ID:u7NS3vDQ0
>川村さん

ちょっと訂正がありました。
資料を確認した所、田宮某についての史料は「朝陽館漫筆」のようです。
手元に資料が無い状態で書き込んでいたので間違いました。

わたしが読んだ資料と言うのは、無双直伝流の研究者、南山大学教授榎本鐘司の論文
「北信濃における無双直伝流の伝承について」(双と伝は字体が違いますが)
です。

詳しくは、原典にあたるか、榎本教授に直接尋ねるかするのがよろしいかとおもいます。

とりあえずこちらから川村様にmixiメッセでもお送りしますので少々お待ちください。
880川村景信:2008/07/14(月) 12:40:00 ID:Uc9XuvY80
>>879◆ap5M8aZ8yI様

 丁寧な御返事ありがとうございます。
 以後は二人だけの御話とします。
881川村景信:2008/07/14(月) 16:28:23 ID:Uc9XuvY80
 >>878 八郎様


 う〜ん。完全にアウトな内容ですね。申し訳ございません。

 大森師は土佐人ではなくぴピ――家人からピ――藩士になった人物です。
 新陰流や小笠原流から「何か」したんでしょうが、私にはよくわかりません。
 多分…(≧?≦)テヘッ?

 無外流兵法譚
 http://www.mugairyu-hyohotan.com/index.html

 いずれこのHPで公開してくれるでしょう。
 「武家礼法と武術流儀」とか「新陰流居合の誕生」のあたりで。

 小栗流の系譜
 http://homepage2.nifty.com/ryomado/Sakaryo/SRanec/saryo_anec03-05.html

 これをもとに脇道ですが小栗流について述べておきます。

 小栗流の抜刀術の元は「無外流」です。
 祖は「足達甚三郎」旧名を「林修之丞政靖」といい、林六太夫守政師の「次男」です。
 (つまり、上記の伝系に書かれた「三男」は誤り)
 足達師は無外流の免許皆伝で、小栗流を整理し抜刀術を加えた人物です。

 六太夫師は足達師に流儀を授けなかったので、関連はないんじゃないですかね。

 コミュニティの参加者から八郎氏の参加はどうか、という話があります。
 宜しければ参加してください。
 若しかしたら、「何か」思い出すかもしれませんよ。
 ( ̄ε ̄)〜〜
8828郎:2008/07/14(月) 23:13:40 ID:b9NUT8bW0
おっ。それはありがたい話ですね。強引にでも「何か」思い出していただきましょう(w
オイラはたいした資料を持っていませんけど参加させてもらえればありがたいです。
いや、その前にミクシイに入らねば・・・(笑

竜馬堂は以前水野柳滴斎を調べたさいに読んだ覚えが有ります。
これを読んだ限りでは朝比奈時代は居合いは水野流居合やわらだった事になります。

そこで疑問なのですが「尾府御家中武芸はしり廻り」に
長尺刀の寸を縮めた居相の改革者として小関口流鈴木才三郎門下の
『水野作兵衛正勝』なる人物が出てきます。
当時はかなり有名な柔の師範だったようです。
山田次郎吉も剣道史に「水野柳滴斎関係者・・・かなぁ?」と書いていますが
この人って何者かご存知しょうか?
883川村景信:2008/07/14(月) 23:16:11 ID:YqEgcb950
 >>八郎様


 今までこんな素頓狂な考えをしなかったのですが、
 他の方に分からないニュアンスで私の仮説を書いておきます。

 孫四郎師の後年の苗字は母方のでしたよね。しかも北条家の「重臣」だったでしょう。
 この姓ですが、現時点まで日本に存在したとは確認はされていません。
 本当に盲点でした。
 何かのついでにでも、日本姓氏辞典など引かれると分かると思います。

 さて、当時の北条家で、そもそもこんな「苗字」は多くなかったと思いますよ。d(^^*)
 下手したら神格物ですからね。

 そういえば、土佐の細川家が島村姓を名乗ったのは上司に「細川」という人物がいたからですよね。
 或いは「富田」流を弟子の代で「冨田」とか「戸田」なんて書くこともありましたね。

 ということは…。。。

 そういう訳で、私の紀州藩資料検索のテーマは北条家でこの姓を名乗った人物と、
 上泉家の姻戚事実がなかったかということです。

 そう考えると、私が鳩氏に「どんな」資料の提示をお願いしたのか、
 分かると思います。

 それと、これは>>878で聞かれたことに対する答えの一つでもあります。
 裏付資料はmixiでしか公開しませんけどね。
 八郎氏には私が述べたことがどれだけ「吹っ飛んで」いるか分かっていただけると思います。
884川村景信:2008/07/14(月) 23:29:59 ID:YqEgcb950
>>882 八郎様

 存じ上げません。
 というか、今資料の殆どを上司に貸してるもので。
 和田流の伝書も一緒に渡したので手元にないです。スイマセン。
 関連はあると思います。別名だったり、弟君だったり色々考えられますね。

 資料がないことにはなんともいえませんけど。
 
 ちなみに私の上司は「軍学」や「築城」を主に研究しています。


 「無外流兵法譚」の[水戸藩系田宮流の一考察]待つしかないんじゃないですかね。
 あちらは「専門家」な訳ですから(笑)。

885八郎:2008/07/14(月) 23:54:19 ID:b9NUT8bW0
>883
なるほど外他一刀斎みたいなもんですな。
・・・と、さらに飛躍させる。
886川村景信:2008/07/15(火) 00:26:58 ID:mKLRSmY90

 >>各位

 大体の目的を果たしたので私は以後、このスレッドから退去させて頂きます。

 さて、「天狗古爺洞blog」の足跡増を三日間の平均で見たところ、
 23〜26人の方がこのスレッドに興味を持たれているようですね。
 うち、当コミュニティへの参加者増は見込みも入れて3人でしたのでまずまずの成果でした。

 スレッドは見ているので呼べば来ますが、
 私がお話したく無くなる様な、礼儀も知らないような方の相手はしません。
 ご了承の程、宜しくお願いします。

887名無しさん@一本勝ち:2008/07/15(火) 01:14:19 ID:nAtMY/G+0
何でそんなに偉そうなの?
888川村景信:2008/07/15(火) 03:28:56 ID:mKLRSmY90
 >>887

 私、礼を尽くしたつもりでしたが「まだ」足りなかったでしょうか。
 これまで私は諸兄の質問に対し、敬意の念を持って「全て」に応えさせて頂きました。
 私も弱輩ながら、初めて参加する場で不慣れでしたので、
 諸兄に置かれましては不愉快な思いを抱かせたかと思います。
 それは私の誠意が伝わらなかったのですから、お詫び申し上げます。
 
 皆様御多忙とは思いますが、私も一日中ネットをしている人間ではないので、
 昼は仕事で部下を見なくてはいけませんし、夜は大学の講義に出席しなくてはなりません。
 その間を縫っての稽古と研究です。
 忙しい身の上ですが、八郎氏・鳩氏との論も収束したことですし、
 新しく得させて頂きました情報ついて私なりに考証もしなくてはなりません。
 そこでこれ以上皆様の議論の場を汚すのはよくないと考えて「退去する」と申し出ました。

 これらの立居振舞いに問題があったことは大変申し訳なかったと真に反省致します。
 言い訳に聞こえたかもしれませんが、私の不徳と致す所、重ねてお詫び申し上げます。

 最後に返事が送れたこと、遺憾と存じます。ご容赦ください。
889名無しさん@一本勝ち:2008/07/15(火) 03:35:19 ID:MkfDCjr40
なんつーか、居合ってのは肩が凝る世界だな・・ははw
俺には難しいや。
890名無しさん@一本勝ち:2008/07/15(火) 05:33:19 ID:dPl/kBc10
>>889
いえいえ、そんなに肩の凝るものでもないですよ。川村氏のように研究を
される方もおりますし、私のように気楽にやってるものもおりますし...
要は楽しむことです。
891長文その2:2008/07/15(火) 18:59:46 ID:nAtMY/G+0
あなたの建前
>私は専売研究が目的ではありません。方法論を提示して、地方に居る修行者、特に学生の修行者を主体とした相互研究のモデルを作りたいと考えています。

本音
>それは不特定多数ではありませんし、付き合う人間は取捨選択したいと考えています。
>誰かの研究に貢献しようなどとはまったく考えていません

こういう気持ちはよく分かります。
研究成果を盗まれたら堪ったもんじゃありません。しかし、あえてこの掲示板に
まことしやかな情報を垂れ流すことについて
>私が持つ情報、持つ資料が多くの研究者に混乱を招くことを知っているからです。
知りながらやるのは悪質ですよ。あなたの我儘のために少なからず混乱した人は居るはずだ。
こういうのもあなたの立居振舞いの一つではある。

向学心の有る者(ほとんどは教えてクンだが)ならあなたに教えを乞いたくなるはずだ。
何しろ、我が神通力をば見よとばかりの「天狗ナンタラ」とかいう大看板を掲げてるんですからねえ。
それでも、持たざる者は門前払い。さぞかし、あなたの胸はスっとすることでござんしょう。
貧しい教えてクンどもにはいい加減ウンザリでしょうからね。
貧乏人の患者を見殺しにする医者の話って、時代劇の定番だなあw
我々の誠意もあなたには通じないでしょうな ( ̄ε ̄)〜〜
どこぞで黄金色の「情報」とやらを手に入れねば。
江戸っ子なら女房を質に入れてでもね!
892長文その1:2008/07/15(火) 19:02:53 ID:nAtMY/G+0
川村さんへ

> 私、礼を尽くしたつもりでしたが「まだ」足りなかったでしょうか。
はっきりいって、「厭味」にしか聞こえないっす。

> 私がお話したく無くなる様な、礼儀も知らないような方の相手はしません
こんな常識、わざわざ書かなくてもいいですよね?この「私」という一人称が誰であれ、
あなたでなくても私(この書き込みをしている私)だってそう思いますよ。

>これまで私は諸兄の質問に対し、敬意の念を持って「全て」に応えさせて頂きました。
はっきりいって、「嘘」でしょ(^^)
>この話もコミュニティ内で展開するので、ここではやめておきます。
>勿論、稽古会・研究会でも絶対に教えないです(今回は鳩氏と情報交換のために止む無くです)。
諸兄などと言いながら自分の欲しい情報を持たない不特定多数の者は眼中ではないと仰ってますよ。
あなたの誠意は感じませんでしたが、建前と本音はチラッと見えました。

他の掲示板のクセで前後の投稿が逆になっちゃってゴメンw
893雨龍景虎 ◆1k/pfLft2. :2008/07/15(火) 20:04:09 ID:RV9HgBVP0
無礼な情報乞食が顔真っ赤すぎてワロタ
894名無しさん@一本勝ち:2008/07/15(火) 20:22:14 ID:zUo7y+ku0
そうかな
顔真っ赤というほど冷静さを欠いてるとも思わないけど
俺も川村さんの書き込みにあまり良い印象は持たなかったよ

まあそもそも川村さんや雨龍君も、書きすぎですよ!なんてレスをしあってたように
mixiで閉鎖的である事を前提にしてコミュニティを開催しているから
書き込みの内容は至極真っ当だと思うけどね

鼻につく物があったというだけの事でしょ
8958郎兵衛:2008/07/15(火) 21:50:15 ID:1NZv0Iow0
うむ。人間とはむづかしいであるなぁ。
まあ、ここには前スレから居るけどネタ的にがんばってたのは暗殺くんぐらいだったのも事実だ。
このスレは技術と武道史を真っ向から語り合えば絶対良スレになると思うのだがなあ・・・
良い機会だたと思うよ。

まあオイラ的には武道情報と言うものは足で稼ぐもの。
いろんな師範に会って話して酒飲んで怒られてまた会って酒飲んでw
そういうことを繰り返して武道の人脈を広げれば情報も技術も広がる。
すげー簡単な話じゃあーりませんか。

もう一つ重要な事は、目先の情報ではなく自流派を深めていくことだね。
武道というものは深めれば深めるほど必ず迷いが出てくる。だがどうすればいいかわからない。
大いに苦しめば必ず必要な情報が見えるのじゃまいか?
896川村景信:2008/07/15(火) 22:45:51 ID:0t0XmnY70

 >>八郎様


 関東付近を中心に調べた結果をご報告します.

 前に言った奥の澤のたまひで郷ですが、場所が違って
 埼玉県の熊谷辺りの「玉井郷」でした。
 古書で言うと『新篇武蔵』に出てくるそうです。
 幡羅郡・榛沢郡の2郡からなり、中世末期から用いられたようです。
 属村が新島・玉井の2か村です。

 和歌山紀州藩にはドンピシャで「たまで」がありました。
 現在は「玉伝」と書き、古くは「玉手」とあります。
 現在の日置川町にあたるそうです。

 あとは誤字を考慮に入れて栃木県の「玉生(たまにゅう)」と言う地名もあります。
 古くは玉生城という城が築かれたといいますから、時期が会えば可能性があると思います。

 山梨県には「玉井郷」がありますが、現在でも場所が特定されていません。

 出典「角川地名大辞典」(9 栃木県)(11 埼玉県)(19 山梨県)(30 和歌山県)

897八郎:2008/07/15(火) 23:47:21 ID:1NZv0Iow0
すげーーー。自分は何年かかってもわからなかったけど
あっという間に調べちゃったんっすねw
さすが専門家。感謝します。

埼玉いいですね。埼玉県なら武州一宮流と繋がりますし
林崎始祖ゆかりの地だし箕輪から小田原の中間ですごくイイ感じです。
まだ空想のレベルだけど凄く楽しいです。ありがとうございます。
898川村景信:2008/07/16(水) 00:06:25 ID:8wSis28+0
≫八郎様

 専門家ではないのですが…。

 一応、趣味を活かして
 『血縁系統調査業』と言うリサーチ業もやって居ります。
 あとはカルチャーセンターで歴史学を教えたり、漢字の成り立ちを教えたり、
 コンビニの店長やったり、居酒屋やったり、司法事務やったり、警備業やったり、
 派遣やったり、引越しやったり、営業もやりましたし、PR業もやりました。

 文献だってタダじゃないですから。地域調査含めて年に150万もかかったら、
 仕事の「ついで」に調査できる仕事を選びますよ。
8998郎兵衛:2008/07/18(金) 00:27:54 ID:qKP1xap00
=゜ω゜)ノ 補足っす。
以前他板で話題にした時、この人が無楽じゃないかと指摘されました。

長野業真(ナリマサ)十郎左衛門。幼名伝蔵。上野出身、彦根藩家老。
甲州若御子台、真田陣、蟹江、小牧長久手、関ヶ原、大坂の陣へ従軍。
小田原陣の篠曲輪の働きでは秀吉より馬を賜る。
井伊直政より知行壱千貫。関ヶ原、大阪での働きで3000石に加増。
井伊家の家老となる。(三百諸藩家臣事典)
900川村景信:2008/07/18(金) 04:04:26 ID:XwdMJIn20
≫八郎氏

 長野師の名前ですが「ナリザネ」と読む方が合っていると思います。
 ex)道真→「ミチザネ」の読み方です。

 学研刊『歴史群像シリーズ68 戦国剣豪伝』に見開き(2頁分)で大体同じ内容が書かれていました。

 >無楽斎は浜川伝蔵という変名を用いたことがある。これは遠祖・在原業平が上野国司として赴任した地が
 浜川領だったことにちなむものであろう。
 >無楽斎は小田原の北条攻め(天正十八年)に軍功あって、主の井伊直政より備前国宗の刀を下賜された。
 >無楽斎こと長野十郎左衛門自身、三五〇〇石を禄したこともあるが、四代藩主・直興の代に編まれた
  『藩士族譜』に同名の士の記録があって、五〇〇〇石と書かれている。何代目かの長野十郎左衛門の
  禄高である。
  箕輪城陥落後、信玄麾下の内藤昌豊の配下になった折、上泉公や出羽業親が居たであろうことや、
 井伊直政に下った山県昌景の「赤備え」を継承した一人(当時・二十二、三歳と推測)であったろうことが
 書かれています。

  出典が書かれて居なかったので、資料を提示して頂いたのは助かります。
 有難う御座います。