少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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78B (BLACK BELT)
>>75
>Bさんはこうなった場合に僕が単に間違っているだけ、と言える
>かどうか。簡単に無視する事は難しいと思う。

みんなが同じ世界に同じようにいるというのではなく,特定の人物から開けている
世界という形で考えた上,現にBから開けている世界にこだわって,それ以外の
人から開けている世界は可能世界にすぎないという考え方を貫くなら,無視する
というか間違いと言い切ることは別に難しくない。なぜなら,現にこの世界が
Bからのみ開けていることは,明らかだから。
難しいのは,間違いと言い切ること自体ではなく,その前提となる上に書いた
ような考え方を貫くことのほうだろう。何しろ,その考え方を徹底すると,
永井の一連の著作ですら,世界が永井から開けていることを前提にしている
限りでは,全て間違いだという帰結になる(これは笑える帰結だが,しかし,
その考え方を本当に貫くと,やはりこのような帰結になるんじゃないか)。
逆に考えると,現にBから開けている世界にこだわるという考え方には限度が
あって,やはりみんなが住んでいる共通世界みたいなものも考えなければならない,
ということになるのか。しかし,そう考えるとしても,特定の人物から開けて
いる世界と共通世界みたいなものとは,どういう関係にあるのか。それとも,
「いや,この世界はBではなく,この私から開けている」という種類の発言は,
他の世界(可能世界)の中心となっている人物が言った場合だけでなく,Bから
開けている世界の中にいる他人に過ぎない人物が言った場合にも,何らかの理由で
正しい発言だということができるのか。

まあこの辺は全く個人的な疑問に過ぎないんだけど,>>73>>74あたりで言いた
かったのは,独我論の読み替えという問題については,永井はウィトゲンシュタ
インの用語とはだいぶ離れたところで議論をしていて,個人的には疑問も残って
いるし,他の問題にそのまま応用できるかどうかも不明ではないか,ということ。
見習い拳士さんがそのあたりについてウィトゲンシュタイン解釈により説明する
ことができるというのなら,僕がウィトゲンシュタインの議論をよく知らないのは
前に書いたとおりなので,別に反対するつもりはない。