>>69 永井のウィトゲンシュタイン解釈は,(私はそれ自体にはあまり興味はないけど,
もし問題にするのであれば)いろいろぶれている点があるようにも見えるので,より細かく
検討しないといけないのではないかと思われる。
例えば,私的言語については,『ウィトゲンシュタイン入門』p179では,私的規則の問題と
本質的に同じであるようなことが書いてあるけど,『事典哲学の木』p467では,私的言語の
問題を私的規則の問題と同じであるとする解釈があるが,そうではなく,私的言語の問題は
私的規則一般の問題よりはるかに限定された問題である,と書いてある。また,『事典』の
p320の言語ゲームという項では,私に見えているという直接経験の意識事実は絶対に確実で
あるという確実性の源泉は,「私に〜が見えている」という表現を使う言語ゲームにある,と
書いてあって,言語ゲームがあって初めて私に見えているということの確実性があるとされて
いるが,『私・今・そして神』では,私的言語と言語ゲームに優先順位をつけることはできない
(p206)とか,私の言葉の理解に関する(?)確実性が言語ゲームの規則を初めて可能にする
(p203)とか書かれている。
このあたりは,一見すると整合しないように見える。それが,何か理由があって書き分け
られている(例えばそれぞれの本の性格を考慮したとか)のか,それとも以前より考えが
進んだりして解釈に変化が生じたのか,あるいは一見すると整合しないが実は細かく見ると
そんなことはないのか(実際,用語やニュアンスは少しずつ違っていると思われる),よく
わからない。しかし何にしても,ぶれがある以上は,「永井のウィトゲンシュタイン
解釈はこういうものだ」と一つに決めて,それと合わない解釈を別のところで示している
からといって批判するのは,うまくいかないおそれがあるんじゃないか。(まあ「あち
こち矛盾したことを書いてるようじゃ全体的にだめだ」という批判はあるかも
しれないけど)