少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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68B (BLACK BELT)
>>58
>ウィトゲンシュタインは「甲虫の比喩」を
>感覚というものがどうしても言語(ゲーム)化されてしまうことの(やや誤解を招く)例として
>出したのだと思うしそれ以外には考えられない。

見習い拳士さんの解釈は永井均の解釈と重なっていると思います。
でも違うのは永井均は、その言語ゲームを<私的言語>が呑み込んでいるんじゃないか
と疑っているところでしょう。
>>37では舌足らずだったけど、叩かれたときに痒く感じるようになった人は
叩かれたとき、「痒い」という。もちろんこれは「痛い」の箱が「痒い」に変わっただけだ。
だからこの「痒い」という言葉も言語ゲームの一手だ。
でも箱が大事で箱の中身は問題にできないというのなら、このような変化をどう説明するのだろう。
叩かれたという外枠からすればここで感じているものが何であれそれは「痛い」の箱に入った
「痛い」でしかなく、箱の中身である私秘的感覚の<痛い>は問題にできない
と見習い拳士さんは言ってたわけだから。
もし、叩かれたという外枠があるのにここで感じているものが「痒み」であれば
私秘的な感覚である箱の中身が変わったことで、外側の箱の「痛い」が「痒い」に変わったと
考えられるのではないだろうか。

>>37あたりで言いたかったことはこういうことだったんだけど。