少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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65B (BLACK BELT)
>>58
うーん、どうしても私が鈍感で幼稚で誤解していると言わねばならないのでしょうか。
>>55の『ウィトゲンシュタイン入門』の解釈をよく読んでください。
ウィトゲンシュタインは後期において、語りえないと語ることもしなくなったことで
独我論が本来言わんとしたことを守ろうとした。しかし、それは多くの「感知しない人」によって
独我論の内実を放棄したと解釈される。私はこのように解釈しています。

さて、私の解釈ではウィトゲンシュタインは守ろうとしたものを守れていません。
(ここが見習い拳士さんと大きく違うところだろう)
だって徹底的な断念はまさしく短絡させられて、放棄されたことになってしまうのだから。
(現にそうでしょ)
もし永井均がウィトゲンシュタインより一歩進んだとしたら「語りえないものを語る」という
姿勢においてだと思う。

見習い拳士さんの言うように、語りえぬものを語るという言葉が単なるパフォーマンスに
転落してしまうとしても、問題がそこにあることを示すのは意味があることだと私は思う。
逆に見習い拳士さんに聞きたい。勝手批評さんは永井均の<私>論に
ある程度理解を示しているみたいだけど、その<私>論を徹底的に断念したとき
<私>論は<私>を認めない人たちから守れるのですか?
一面的には誤っているとしても別の面から見たときは肯定できるという事柄は
世の中に五万とあると思いませんか。
だから「語りえないものを語る」とはウィトゲンシュタインの徹底的な断念を
反故にするのではなく