>>54 >「語りえないものを語る」ということをBさんは真剣に検討した事があるのか。
>(この前部「語り得ない」はポーズに過ぎないのか)では実際に何を語るのか?
私自身は、<私>を語るということが「語りえないものを語るということ」だと思っている。
だから永井均は哲学をすることを神に祈ることにたとえる。祈りとはある面では無意味なことだから。
「<子ども>ための哲学」がなぜ、<子ども>のためなのか。
「<子ども>の問いはもうそれ以上問えませんよ」と永井均は言っていない。
むしろそういう問いこそ問われるべきじゃないかといっている。
はじめから「語りえぬものを語る」とことを貫いてさえいる。
また、ウィトゲンシュタイン入門で永井均が後期ウィトゲンシュタインを「感知しない人」と
言ったのは――私の解釈では――語りえないものを語りえないとも語らなくなった
ウィトゲンシュタインのことを、「独我論を放棄した」と解釈している人たちに向けられたものだ。
それと「誤解している」と批判するのは時期尚早ではないか。
まず、はじめに「誤解しているかもしれない」と問うべきではないか。
「甲虫の比ゆ」は「開闢されたものが開闢された世界の中に位置づけられる」という
『私・今・そして神』のテーマに関連して展開されているのだから。