少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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54見習い拳士
>>51
>ただ外部に立てないとしても外部が問題なのだから、語りえないものを語るといっているだけだ。

哲学的にはまさしくここが重要なポイントであって、カントやウィトゲンシュタインはこの限界の外
を語ろうとする事によって理性は誤謬を招くと考える。また実際人々は形而上学について好きな事を
言ってきたが、これはただ自由放埓に物事を語ってきただけで誰も確かめようの無いものだった。
(カントの例で言えば魂の不死だとか)

>永井均は「独我論が普遍的な独我論に読み替えられる」とは言っているけれど、
>それ以上は語ってはならないと言っていない。

これも純情素朴すぎる解釈だと言わざるを得ない。語ってはならない、なんてもちろん永井氏は言わない。
むしろ幾らでも語れるから「語れない」んだ。(「ウィトゲンシュタイン入門」結部216p-217p)
「後期ウィトゲンシュタインについて語りながら、このことを感知しない人があまりにも多い」
にBさんは含まれるのではないか。

「語りえないものを語る」ということをBさんは真剣に検討した事があるのか。
(この前部「語り得ない」はポーズに過ぎないのか)では実際に何を語るのか?

Bさんには悪いけどこのあたりの苦悶が一番重要なのに特に理由も無く楽観的に
「語りえぬものを語る」と言うのは永井氏の態度とは違うと思う。これを未熟と言われても仕方ない。
(僕の永井氏批判は永井氏がこの苦悶を理解した上でなお、どんな議論ができるのか
ということに尽きる。批判とは悪口を言うことだとBさんは誤解しているがカント的な意味で
批判という語は使われるべきだ。僕は永井氏の「甲虫の比喩」批判は誤解だと思ったから指摘しただけだ。)