少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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43見習い拳士
>>39
もちろん箱の中身は大事なものだ。でもその<大事さ>がどうしても言えない、という点が
重要なんだ。Bさんはこの点をはっきり掴んでいないように感じる。
ウィトゲンシュタインの身を捩るようなこの断念の意味を理解しないと論理実証主義や日常言語学派
みたいになってしまう。彼らは言わば「普遍的な、形骸化した独我論」みたいなもので
形骸化することで或る意味では人々の役に立つけどそれは哲学的には抜け殻でしかない。

大事な中身がある、ということはまだ哲学的なステップに到達していない。それを僕らは
どうしても言葉に出来ない、というのが哲学的(ウィトゲンシュタインのそれ、だが)ステップ
なんだ。

僕が永井氏に批判的と見えるとすれば、永井氏はちゃんとこの哲学的ステップを踏んでいるにも関わらず
(それは彼のウィトゲンシュタイン理解を読めば分る)甲虫の比喩を誤解して批判してみたりするのは奇妙だ、という事。
うがった見方をすればウィトゲンシュタインのように「箱の中身」を語ることを断念すると
もう哲学者に残された仕事は(或る意味では)無くなってしまうから、著書を成り立たせるために
哲学を延命する為にわざと批判をしているのではないか、と思ってしまう。(或いは単純に永井氏は
誤解してるだけかもしれないけど、Bさんと違ってそこを間違えたりしないと思うんだけどなあ。)