少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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36見習い拳士
>>29
>この場合「痛い」の箱の中に「痒い」が入っているんじゃないのかなぁ。
>そしてこの場合、だれがなんと言おうと私にとっては箱の中身の「痒い」がすべてなんじゃないだろうか。

Bさん、これはおかしいだろう。それならこの人は「痒い」と言うはずだ。だとしたら今度は「痒い」という箱
の中身が問題になるだけだ。でもこの箱の中身を「痒い」とは呼べないだろう。だってこれも言語でしかないんだから。
Bさんはいつまでも言語の表面に留まり続けざるを得ない。と同時にしかし「痛い」という語(箱)の中身について
常に問い続けることが出来る。(ここの所の構造については独我論は常に普遍的な独我論に読み替えられるという
「<子ども>のための哲学」その他での議論が全く同型になっているので参照して下さい。)

甲虫の比喩はあくまで比喩だ。これは人が<痛い>時には「痛い!」(とか「うっ!」とかいううめき)
という語でしか表現出来ないという事、これは完全に表裏一体の事柄なんだ、ということ。
そしてこれを心の中で言ったところで私秘的になるわけではない事に注意して欲しい。
その心の中で言った<痛い>や<痒い>は再び言語ゲームとして用いられているだけだから。

また感覚は言語ではない、という意見があるかも知れない。全くその通りだけど
それならこの事について僕達は哲学的議論をすることが全く出来ない、ということを認めなければならない。
だって哲学をする時、僕らは言語を用いざるを得ないからね。