少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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27見習い拳士
>>23
全然ややこしくなんかないんだけどな。(ややこしい、と感じられるのは言語化の波という現象が
余りにも普通の事なのでそれを意識的に感じる事が難しいからだろう)

永井氏の甲虫批判は明らかに実在の箱に実在の甲虫が入っているイメージから、
「箱の中身」はそれ自体、箱(の外見)とは別に言語ゲームに影響を与える、と考えている。

でもこんな風に考えたら当然「箱と箱の中身は短絡する」というのは明らかな間違いでしかない。
箱と箱の中身(甲虫)というのは最初から言語化の波を表す比喩なんだ。『箱』が意味するのは言語ゲーム
として通用する全て(言語・ジェスチュア)であり、『箱の中身』というのは実はその箱をどう使うかの用法なのだ。
何故なら<痒み>を感じたのなら「痒い」と言い、その部分を掻くだろうから。だからこれも言語ゲームの一手に過ぎない。

>・永井さんのKへの批判(実は痒み云々)は「痒み」と<痒み>を混同している
とあるが後者の<痒み>はもう既に言語だ。これはまさに感覚そのものとしての<痒み>でなければならないのに。
言語でない<痒み>を僕らは決して表現できない。でも哲学をする時にはどうしてもそれを言語にしなきゃならない。
そして実際にこれまでの僕らの議論の中ではそれを<痒み>と呼んで用いているわけだ。
(かくして箱と箱の中身は短絡<させられて>しまう、というわけ。)