少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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21見習い拳士
>>20
うーん、ウィトゲンシュタインについて「よく知らない」のは困るなあ。それじゃ永井氏の
ウィトゲンシュタインによる「甲虫の比喩」に対する批判もよく理解できないことになっちゃう。
(Bさんは永井氏の意見だけ聞いて欠席裁判をやってることになる。)

じゃあ、永井氏の「独我論が普遍的な独我論に読み替えられてしまう」という議論は?
これさえ理解していれば「甲虫の比喩」や「規則に従う」ことについての一連の議論が
「独我論の読み替え」議論を、言語活動の全て(どころか全ての人間活動)に拡張したもの
である事が理解できる、或いは少なくともその重要なカギを理解した事になるんだけど。

そしてこの段階まで理解できれば『<私>の存在の比類なさ』や『私・今・そして神』等で
展開されている「甲虫の比喩」批判は誤解であることが自動的に理解されるはずなんだけど。

この段階までBさんが理解していない以上、以下の指摘は全く理解出来ないだろうけど一応。
永井氏の誤解、というのはウィトゲンシュタインは最初から普通の、実体ある甲虫が、これまた実体のある
箱の中にある、というイメージで語っているのではない、ということを完全に見過ごしているということ。
(そういう風に読まれる危険性があるのは明らかだが、それだとウィトゲンシュタインが永井氏の解釈の
ように素朴で明らかに間違っていることを言っていることになってしまう。『哲学探究』のその他の
部分で様々な例を持ち出して繰り返し主張している事を見ればそうではない事は明らかだ。)

重要なヒントとしてウィトゲンシュタインの「言語は、言語以前の何かからの翻訳ではない」を挙げておきます。