少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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165見習い拳士
>>149
>>150

返答おそくなりました。

>「私にだけ心があって,Bやその他の他人は,心のある振る舞いを
>しているだけのロボットだ」と言ったとする……

この議論の最大の問題点は何が「心」なのか、ということだ。人間をどんなに解剖してみても
どこにも「心」などというものは見つからない。自分自身の体を解剖してみても同じだ。
(脳の動きを外から確認してそれを「心」と呼ぶのか。仮にそうだとしてもこれは見たり、聴いたり、感じたり
ということをする際の脳の動きに過ぎないだろう。)
とすればこの意味では最初から他の人間を心の無いロボットと見なしても問題無いことになる。

とすると「実は他人達は本当にロボットであった」ということが判明するとはどういうことなのか。
判明などしようがないのだ。

これは独在性と平行している問題だから結局議論は元に戻ってくる。<本当に>心がある、とは
どういうことか。それは探求して見つかるものではない。何せ自分の体を解剖しても
見つからないのだから。(永井氏は『<子ども>のための哲学』の中でヒュームの「自分自身の中のどこを
探しても「私」などというものは見つからない」という表現を笑い飛ばしているけど、僕はそれこそ
虚心坦懐にヒュームは表現しただけじゃないかと思う。やり方はまずいかもしれないけど。)