少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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16見習い拳士
>>14
>他の人のことはともかく,何で僕にそういう反問が来るのか,よくわからない。
ここがウィトゲンシュタインの(前期・後期通しての)哲学の肝の部分なんだから「よくわからない」なんて
子供じみた事を言わないでよ。

言葉もジェスチュアもいわゆる「言語ゲーム」として現れてしまうからこそ、言葉に出来ない<この>感覚
はもう言葉にもジェスチュアにもならないというところが肝心なんだ。

ところが哲学者(永井氏を含む)は哲学によってまたそれを言語化する。でもこれは無駄な事だ。
何故なら彼らの著書を人が理解できる以上、(理解できなければ書物として成り立たないのだからこれは当然だが)
それも言語ゲームで<あらざるを得ない>んだ。この<言語化>の波には抜け道が無い。哲学者は
色々な新しい哲学用語を作って回避しようとするけど。

これはそのまま独我論が普遍的な独我論に読み替えられるということを言語活動の全てにわたって拡張した議論に
なっている。(そしてそれを永井氏が理解していないはずは無いと思うのだが、あくまで
何らかの方法があるかのように仄めかしているように見える。)

Bさんの言う「僕の理解」がどういうものであろうと
これはまず第一に押さえなきゃならない所でこれをBさんが理解していないのなら
ウィトゲンシュタインの書いたものをどれだけ読んでもあまり意味は無いと思う。