少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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156見習い拳士
>>147
Bさんが挙げた永井氏の記述前半部は全くその通りだと思う。(もっとも何故「全くその通り」
と言えるのかはこれまたややこしい哲学議論が必要だが)
ところが「なぜなら」以降の後半部についてはそれが「端的な事実そのものの素直な受容」とは
到底言えない。少なくとも永井氏のこの記述を素直に受け取る事は出来ない。それ故
「素直な捉え方をそのまま 言葉で表現できたのであって,それはそれでいい」とは決してならない。

だってここに正真正銘の<私>がいるんだから永井氏(やBさん)の言う<私>なんて
この正真正銘の<私>の中の単なる「立ち現れ」に過ぎないんだから。

永井氏は独我論の二つの賛成の仕方について書いているが、これの正しい応答の仕方は
「いや、世界にただ一つあるのはこの<私>なのだからあなたは端的に間違っている」
というものにならざるを得ない。Bさんは当然永井氏の議論を否定しなければならない。

Bさんは永井氏の記述を何の疑問も持たずに「自分の事」として「読み替え」て平然としているが
僕にはこんな事不可能だ。(148の記述から見て未だBさんは「読み替え」の意味を理解していない。
もう既にBさんは永井氏の独在性をBさんの独在性に読み替えてしまっている。僕が言う「読み替え」
は人間が意識的に行う事などではないのだ。)                        

>>148
>私と他人の違いを言語で言い表すことができないということの方が,
>本来のことではなく,説明を要することになるのではないか。

哲学的にはそうだ。でもこの説明が是非とも必要なわけではない。言語というのは物事を
等し並に扱うからこそ、その用を為すのだから。これに説明など必要無い。「私」とか「あれ」という語で
人々の見解を一致させる事が出来ないのなら言語なんて何の役にも立たない。当然ここでの議論も最初から不可能となる。

(Bさんの書き方だと誤解を受けるので付け加えるが、「私と他人」の違いは簡単に表現できる。
だがこれは“哲学的な”意味での「私と他人」の違いを表現出来ない。ここがポイントだ。これは言語には出来ない。)