少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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144見習い拳士
>>143
分った。まずは「読み替え」という表現が誤解を招いているらしい。これは単に「言語」と呼ぶ事にしよう。
(これを「言語ゲーム」と呼んでもいいが現状では更なる誤解を招くだけだろう)

僕らの言語は何の為に用いるのか。当然の事ながら自分が言いたいことを相手に理解させる、或いは
相手が言いたいことを理解する為に用いる。
逆に言うとこうしたコミュニケーションを想定しない言語というのは自己矛盾をきたしている。
「自分は誰とも話したくない」という主張を誰かに話し掛けるようなものだ。
「独在性」ということの主張は基本的にコミュニケーションを拒絶している。他人の「独在性」を
認めるわけにはいかないから。だからこれは言語では表現出来ない。

しかし一方で僕らは言語を介してのみ(この板では文字を通して)理解し得る。
だから「独在性」も言語を通してのみ理解される、というかそれ以外にはあり得ない。
(テレパシーなんてのは駄目だ。それが可能であったとしても哲学ではそれを言語で
表現する必要があるんだから結局は同じだ。)

つまり僕らの議論はもし互いにコミュニケーション可能ならそれは言語であらざるを得ない。
これが散々言ってきた「言語化」とか「読み替え」の意味だ。
僕らの議論がコミュニケーション可能なら、それは僕らが共通に使うツールでなくてはならない。
「独在性」は(その真の意味は)共通性を拒絶している。

質問の「「世界は現にBからのみ開けている」という 表 現 の意味」だが
これも>>91>>102で書いたようにこの表現の意味は単なるという)「個人」ということになる。
何故ならこれだけが理解可能な言語だから。そしてこれを他人には理解できない意味(独在性)で使うのなら
それを他人に向かって言っても、僕のようにどこまでも誤解し反対されるだけだろう。

Bさんはご立腹のようだがBさんの<独在性>を真っ向から否定する事こそ、この議論を
よく理解できていることになるはずだ。<独在性>は決して同調者を受け入れないから。