少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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138見習い拳士
>>121
「このこと自体に反対するつもりはない。」というのはこれまで「何しろ、世界は現に127
からのみ開けているのだから」と主張し続けた事と齟齬をきたすことになる。
だからBさんは当然「この事自体に反対しなければならない」即ち「世界は現に勝手批評
である私からのみ開けている」ということに反対しなければならない。

>>124
永井氏の場合(『論考』のウィトゲンシュタインも)「世界が違う」ということは比較を絶して違う、という事。
だから可能世界の考え方を持ってきたとしてもうまくいくわけがない。結局は複数世界を等置してしまう
ことになるんだから。

永井氏の“言おうとしていること”(独在性)は完全に正しい。でもそれを実際に“語ること”は
永井氏自身が語るように完全に間違っている。だから永井氏の哲学議論は全て間違ってると思う。
(大急ぎで付け加えるがそれは仕方の無いことだ。その<仕方無さ>を延々と語るのが哲学だろう。
これがウィトゲンシュタインの前期・後期・晩年に至る全思索を貫いている。)

>>126
「独在性」という言葉によって他人にも理解出来る表現として現れる時、既にして「独在性」
ということで“言おうとしていたこと”は違ったものになっている。Bさんはその事に気付かずに
「独在性」という(永井氏の作った)語を使っているが、“この時点”でおかしいではないか。
議論の始まりからこの変質が起こっているということが本質的だ、ということに気付いていないから
「読み替え」の意味が分かっていない。この「読み替え」は、議論の始まりには既に終了しているのだ。