少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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124B (BLACK BELT)
121続き
>Bさんの<痛み>についてはこれはBさんが「これは私の痛みだ」とは言えるが、世界については
>同じようには言えない。これはBさんの内側に留まっている事柄じゃないから。)

「最初に考えられていたのは〔中略〕Bあっての物種であるような世界,もっと単純にいえば,
Bが物種であるような世界,だった〔中略〕。ところが今や,AもCもDも,みんな<ぼく>
であり,自分が物種であるような世界の主人公だったのだから,それを忠実に描くとすれば,
複数の世界が存在すると考えるほかはない。同じ一つの世界の物種が複数あることはできず,
物種がちがう世界は,端的にちがう世界であるといえるからだ。」(『<子ども>のための哲学』p90)
このように,世界を開く人が違えばそれは別の世界であることを,永井は明言している。
『転校生とブラック・ジャック』の,特にp161以下には,さらに詳しく書いてある。
これらを文字通りに取れば,永井は,内側とか感覚とか主観的認識とかだけでなく,
「世界」についても,人が違うごとに別々に考えていることが明らかだろう。
見習い拳士さんは,このあたりをどう理解しているのか?あるいは,「世界」についてのこの
ような考え方を認めないということなのか。(それならそれでも構わないけど,そうすると,
最近の永井の議論はほぼ全て認めないということになってしまうのではないか。)

>僕の見解としては「特定の人物から開けている世界」というのは単に個人のことを述べている
>と考えれば完全に正しい表現だ。その意味で「各可能世界」(Bさん、永井氏、見習い拳士)という言い方
>は理解できる。これは「個々人」を哲学的に、大袈裟に表現したものだろう。

このあたりについても同様。永井が明言しているにもかかわらず,「これは「個々人」を哲学的に、
大袈裟に表現したものだろう。」というのは,どういう趣旨あるいは根拠によるのか?
いや,こういう考え方は,少なくとも自明でないのは明らかだと思うので,見習い拳士さんが
賛成しないというのであれば,それは別に構わないけど。