少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

このエントリーをはてなブックマークに追加
12見習い拳士
>>11
では端的に問う。言葉にもならず、ジェスチュアとしても表れない<感覚>とは何か?
いや、ここで何故それが<感覚>であると分るのか。

既に我々はここで公共言語の「感覚」を用いているではないか。永井氏考案の「しくい」も「えもい」も「感覚」として
語られているではないか。

>公共言語に、感じる痛みを指示した痕跡はなくなる。
多分ここに最大の誤解があると思う。「痛み」(或いは「痛い!」「うっ!」という叫び)は<痛み>を
指示しているのではない。もちろんそんなこと出来るはずが無い。
だってもうこれらの言葉(或いはジェスチュア)が<痛み>のことなんだから。
箱と箱の中身が短絡するというのは明らかに(永井氏の解釈のような素朴なものじゃなくて)こういうことだろう。

箱の中身が何であろうとそれは言語ゲームに取り入れられない。言葉もジェスチュアも言語ゲームとして
取り入れられてしまうから。(我々が語りたい)<それ>は延長を持たない極小の一点に収縮してしまう。
(ところが哲学者はまたしてもそれを言語ゲームとして記述しようとして、
それを実体があるものとして錯覚してしまう。)