少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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11B (BLACK BELT)
>>10
痛いことが何なのかは、指示できないのではなく単に「あっ!」であって
なぜか社会では「あー『あっ!』ね」で通ってるものって了解でいいのかな?

そうするとやはり感覚そのものは、公共言語での正しい位置を持ちえないのでは。
結局痛みという名で何を感じてもよいのだから。
少なくとも公共言語から「痛み」を学習した私だけは、公共言語から逸脱せずに
唯一「痛み」を使用していると言えなくもない。だが他者に対して
使用される「痛み」は、私に感じられるものを投影した態度であって、比較対象がない。
そう考えると今度は私が学習したはずの「痛み」は、他者から投影されたものと
一致していないという可能性を否定できない。
この点において公共言語に、感じる痛みを指示した痕跡はなくなる。

誰に「痛み」を問いかけようが、「とにかく感じた『あっ!』だよ、『あっ!』」としか返ってこないだろう。
これは感覚事実の一致ではなくて態度の言明に関する一致ではなかろうか。