少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第39章

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102見習い拳士
>>97
僕はもちろんただ単にBさんの揚げ足取りだけで一連のレスをつけたんじゃない。
Bさんが言う「世界は現にBである私からのみ開けている」という主張は
僕、見習い拳士から言わせてもらえば「単なる間違い」で「世界は現に見習い拳士である私からのみ開けている」
と主張せざるを得ない。

この事を決してBさんは納得できないし、同様に僕も127さんの主張を認める事は出来ない。
だとしたらBさんが僕の意見を無視して「何しろ、世界は現にBからのみ開けているのだから」なんて言ったって
その主張はBさん本人しか納得出来ない事になる。それでいいのなら話は別だが
その主張を“この”僕が受け入れられるわけも無いのは明らかだろう。

独在性はどこまでも他の独在性と両立してしまう。Bさんの独在性の主張はBさんの
中だけで正しい、と言うのなら僕の独在性も僕の中だけで正しいと言えるだけだろう。
(しかもBさんは独在性について単にBさん個人の話として語っているわけではないはず。
Bさんの<痛み>についてはこれはBさんが「これは私の痛みだ」とは言えるが、世界については
同じようには言えない。これはBさんの内側に留まっている事柄じゃないから。)

Bさんは「読み替え」についてうまく説明できないではないか、と言うがそれは当たり前だ。
「読み替え」はいつも・既に起こっている事だからそれを眼で確認できるわけがない。
それが共通の言語(ゲーム)を使っているということなんだから。

僕の見解としては「特定の人物から開けている世界」というのは単に個人のことを述べている
と考えれば完全に正しい表現だ。その意味で「各可能世界」(Bさん、永井氏、勝手批評)という言い方
は理解できる。これは「個々人」を哲学的に、大袈裟に表現したものだろう。