少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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600(^○^) ▼KYAHA/emlo :2007/05/13(日) 00:02:11 ID:INGYDIaF0
  / ⌒ ヽ
  ヽ ☆ ノ
   ==
  ( ・∀・)
 〜〜" =σσ
    (⌒_)
.  〈 v
.   v
  /|__
/     \
|  死刑! |
\___/
601カオル(級拳士):2007/05/13(日) 00:12:51 ID:vMxHammD0
>>597 Bさん
>>というような感じの思考の痕跡を、わたしなりに「まとめた」のが一連の書き込みでした。
>なら、やっぱり<独在性>と『嘔吐』を結び付けているんじゃないのかなぁ。
>だって、はっきりとそう言っている訳だから。

「もし結びつけるのなら〜べつの人なの?」までは即興で表現したものです。
いつもこんな感じで「ああでもないこうでもない」って考えてます、ってことの実演!
で、おなじようにして「私的および私的言語」について考えたことを「まとめた」のが
一連のわたしの議論(前スレ含む)ということなのです。

>>でもやっぱり何が悪いのかまちがっているのかぜんぜんわからないのです。
>何でそう思えるのか、よくわからないなぁ。

わたしは自分が考えたことについて「論を書き込む」、それをきっとだれかが読んで
くれていて、好機に出会えれば「その論」について具体的な意見なり指摘がもらえる。
それによってわたしはさらに考えることができ、まちがっていればそれに気づくことも
できる。そうやって哲学することができるのです。そのために哲板に書き込むのです。

だから、このような具体的な議論とは関係のない書き込みで、肝心のレスが流れて
しまうことが、とっても残念で悔しいです。でも、あなたの気持ちも大切です。

あなたの立場(永井の独我論を理解してしまうあなたの独我論を理解してしまう立場)
になってみた気になって議論してもいいです。永井の考え方には反するのでしょうけど、
永井の超肯定的な信者として。でも、その議論を有意義にするための条件があります。
Bさんに永井哲学の否定論者になってもらうことです。そうでなければ、わたしの論の
どこが永井哲学を否定しているのかがわからないからです。Bさんを納得させられたら
少なくともわたしが‘無理やり’に永井の論を否定しているのではないことがわかって
もらえると思うからです。どうでしょうか?
602名無しさん@一本勝ち:2007/05/13(日) 00:14:25 ID:A0H06A+D0
ま、またかよぉ〜

ええ加減にてkてくれなまし!

え〜けんの廻し者か?

あ、あんたは!
603アゲ:2007/05/13(日) 00:30:50 ID:ZjYN/usmO
あげニダ

<丶`∀´>
604カオル(級拳士):2007/05/13(日) 00:31:59 ID:vMxHammD0

>カオルの権威に対する執着はとても強い。

才能や努力によって身についた権威、だからこその相応しい態度や姿勢にたいして
わたしは素直です。相応しくない態度や姿勢にたいしては、わたしは反発します。

>カオルのレスを読めばわかるが、哲学的知識をとても重要視している。

才能や努力によって身についた知識、だからこそ言える意見について、わたしは素直です。

>一方で、そういう哲学的知識が豊富な人を批判してきたという過去を持つ。

そうではなくて、博覧を誇る人(そうでない人をいやしめ見下す人)や、博覧でなければ
哲学ができないように言う人…を批判してきました。碩学たちはそのようにはなりません。
でもだからといって、浅学非才なのに勉強もしないでプライドだけ高くて素直でない人は
もっと嫌いです。

ロムるだけで、ちっとも書き込めなかったわたしの記念初カキコは「哲学は暗記です。」
というスレでした。もちろん、わたしのことだから、

  知識は真理に至るための手段でしかなく、しかも知識は真理を希求する精神にとっては、
  かならずしも合理的な手段とはかぎらず、たとえそれが論理にかなったもので、客観的
  に正当であるにしても、それはあくまで学問的知識であって、哲学のもとめる知恵では
  ないのです。真理を希求する精神とっては、この命もこの体も手段のひとつでしかなく、
  日々の生活、家庭人/社会人としての経験、すべてが真理に至るための手段なのです。

みたいなことを書いていたはず、です。このような意見であることは今でも変わってません。
605カオル(級拳士):2007/05/13(日) 01:06:42 ID:vMxHammD0

>こういう態度の人と何を議論したらいいのか、何の議論ができるのかはよくわからない。

まだ具体的に何一つ議論してないのですから、してみてから考えてみてはどうでしょうか?

>もう少し肩の力を抜いて、無理やり反対したり、無理やり賛成したり、

そうではなくて(これが無理に反対?)、たとえばAさんがaという立場からa’
という意見をいう、するとわたしはbという立場からb’「そうではない」と反論する。
かりにAさんが、わたしのbという立場からの意見b’に納得したとすると、わたしは
今度は、aという立場から、あるいはc、dという立場から、b’の意見(自分の論)に
たいして再反論する。もしかりにbの立場になったAさんが、さらに強力なb’の意見で
対抗してきて、そこでわたしが反論できなければ、とりあえずはその強力な意見b’を
正しいものとして暫定的に受け入れます。つまり、a’とb’の意見を相互に関係づける、
というメタレベルの視点、あるいは原理を手に入れたいわけです。(たとえばのお話し)

体よくいえば、いわゆるヘーゲル弁証法といわれる方法論です。ちなみに西田はこれを
批判して、絶対矛盾における自己の同一……〈私〉は、この「私」である……という
永井で言う「ずれの運動」こそが、真の弁証法(絶対否定即$竭ホ肯定)だととらえて
いました。

予定されている新刊「西田幾多郎」─絶対無とは何か─に‘無理やり?’あてはめると、
絶対無〈私〉の自己限定「私」という相互に相互の原理であるという原理「相即の原理」、
永井の表現なら「開闢が開闢された世界に位置づけられる」「私的言語が可能である
ことがそのまま即℃的言語を不可能にする」という「ずれの運動」のことになります。

>無理やり哲学的知識を織り交ぜたりしないで(もちろん自然にならいいんだけど)、

もちろん自然です。そう言ってもらえて、なんだかとっても嬉しい。ありがとう。(^.^)
606B (BLACK BELT):2007/05/13(日) 02:42:59 ID:5l8iSBd00
>だから、このような具体的な議論とは関係のない書き込みで、肝心のレスが流れて
>しまうことが、とっても残念で悔しいです。

それもそうだろうなぁ。じゃあ、邪魔しないからどうぞ。
でも、友人としておせっかいをやくなら、しっかり自分の足元を明らかにして議論することと
テーマを明確にすることは大切だと思う。そうじゃないとレスをする人は大変だと思うよ。

それとあえて苦言を呈するなら、
永井均の私的言語論においては、公共言語を成立させるための私的言語という箇所が、
世界内存在としての「私」が、世界を開くものとしての<私>と捉えなおされることと
大いに関係しているのだから、公共言語を成立させるものとして私的言語を簡単に認めてしまうと
問題はほとんど問い終わってしまう。(>>563の3段落目など)
またそういう類比関係を見逃したまま、「生活形式」だとか「コト分け」だとかを
論じても得るものは少ないと言わざるをえないだろう。
また、カオルはよく、「ズレの運動」として<私>が「私」に変わると言うけれど
それは明らかに間違い。<私>は<<私>>に転落する。「私」というのは
たまたまこの私が持っている属性であって、<独在性>は(本来)そんなものとは無関係。
世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私が、いないはずの同格の者たちの中に
取り込まれることを<私>が転落すると表現する。そして転落した先は<<単独性>>。
<<単独性>>に転落することによって、同格のものたちの中で、単独の存在としての
オリジナリティを許される、ここにズレの運動の問題がある。
カオルはここをよくわかっていないから、人生哲学として永井均を読み解く余地があると勘違いしている。

「ああ、そうですね、私が間違っていました」と言ってごらん。
そしたらきっとほかの人もカオルの言ってることを聞いてくれると思うから。
だって、いつも私は悪くない、私は間違っていない、何で私の書いていることを読んでくれないの
って言ってくるでしょ。カオルはそういう人と議論が出来ると思うかい?
607カオル(級拳士):2007/05/13(日) 10:34:16 ID:vMxHammD0
>>606 Bさん
>公共言語を成立させるものとして私的言語を簡単に認めてしまうと
>問題はほとんど問い終わってしまう。(>>34の3段落目など)

ウィトゲンシュタインは『探究』において、もう独我論を語らなかった、それは『論考』
とともに、あとは読者のあなたにまかせます、ということなのだとわたしは思いました。
ウィトゲンシュタインが『探究』で指し示したのは、わたしたち言語存在者にとっての
岩盤、『論考』で指し示したそれとはべつの、もうひとつの生活形式という岩盤でした。

永井は、あくまで『論考』よりの独我論の立場から、〈私〉によって『探究』を包摂しようと
しているかのようにみえます。『論考』の指し示した「私」を超えた〈私〉、実在論と純粋に
重なり合う‘それ’を、『探究』や『青色本』の言語分析の記述の中で、まさに姿なき歴史
の暴力によってかき消されてしまおうとしている‘それ’を、藁にもすがるような思いで探し
求めているかのようにみえます。わたしは永井の著作においてその哀しき行為に触れる
たびに深く深くそれに共感し、わたしと同じ問いを抱えて生きていることを錯覚してしまう。
いえ、そうではなくて、わたしの死の予感を、ほんとうの他者の影をみてしまうのでしょう。
608カオル(級拳士):2007/05/13(日) 10:35:58 ID:vMxHammD0
ウィトゲンシュタインが『探究』において指し示したのは、超越論的なものとしては生活形式
のみであり、あとは一切語らなかった、もちろん独我論についても。私的言語を否定したのも、
私的言語を、ふつうに理解される意味での私的言語に読み替えられないようにするためです。

ウィトゲンシュタインのこのようなやり方は一貫していて、たとえば『論考』において倫理学、
形而上学、美学、宗教……における諸命題を「イミないじゃんみたいな」(nonsensical)もの
としたのも、論理学、数学、プログラミング、自然科学……の言語から、倫理学、形而上学、
美学、宗教……の言語を峻別することによって、後者の言語の前者の言語への読み替え
──たとえば「私」の物理主義的、心理主義的な還元や、「私の理解する唯一の言語」以外
への翻訳など──からの擁護だったのです。「イミないじゃんみたいな」ものこそが、「意味
ある」ものなのだ、だから両者を混同してはならない、というのが彼の格率だったからです。
609カオル(級拳士):2007/05/13(日) 17:14:45 ID:MTKQN63w0

>また、カオルはよく、「ズレの運動」として<私>が「私」に変わると言うけれど(>>14

‘とりあえず’でも、「存在者として存在」するためには、〈私〉でも‘それ’でも、とにかく
読み替えられなければならない。そうでないなら、何かしらの言表をするのでないなら、
そこには沈黙の空白しか残らない?からです。たとえそれこそが真実なのだとしても、
哲学は禅の修行じゃないのです。瞑想によって悟ることにくらべたら、それは漸近線を
描くような営みであって、けっして真実そのものには到達しないのかもしれないけれど、
哲学徒は、そのようにしかできないし、したくないのだから、仕方ないのです。(笑)

「私」は存在者であり、〈私〉はその存在者の否定として〈ある〉のだから、あたかも
〈私〉という存在者がいて、それが「私」に変化する、なんてことは夢にも想いません。
〈私〉と「私」との結びつきに論理的な必然性がまったくないことを明らかにした永井は、
にもかかわらず、どうして「私は、この私なのか?」と問うているのではないでしょうか。

>「私」というのはたまたまこの私が持っている属性であって、<独在性>は(本来)
>そんなものとは無関係。

「本来」というのは、どの本来なのか? それは可能なのか? と、思ってしまいます。
純粋に独在性の〈私〉そのものになるというようなことが、かりに可能であったとして、
それが実現してはじめて、「本来」といえるはずだからです。無謀な話しをしていると
思われるでしょうけど、やはり「この私」がそれを知っているのでなかったなら、どうして
──私は、どうしてこの私なのか──という問いが可能になったのか、と思うのです。
もちろん、わたしの想定は実現することはなく、なぜなら独在性の〈私〉は、「実現」の
否定として〈ある〉からです、というような運動が、すなわち「ずれの運動」だからです。
610名無しさん@一本勝ち:2007/05/13(日) 17:40:19 ID:A0H06A+D0
エーケンに比べると崩し技法の方が得るものが大きかっただけに残念だよな
あそこはN先生の技法継承者だから比べる基準が違いすぎるか

まぁ、今の本部の方針からしたら昔の技法よりもエーケン寄りなのかもしれんけど
エーケンサイトに今の少林寺の縮図みたいなものを感じるよな
彼には彼のポリシーがあるんでしょう
ネットでしかコミュニケーション取れないやつらが賛同してくれるからいい気になっちゃったんだろ
何もわかってないくせに革命児みたいな面してるところが気に食わんね

ネットだけでなくて実際の彼も何様気取りみたいな態度だもんな
どうでもいいから支部長からは降りてくれ
俺様も同感やね!崩し技法をコケ落としたのも
きっと奴の身内、仲間だろ!
お陰で貴重なサイトが閲覧できなくなり
          俺様的には大損だよ
611カオル(級拳士):2007/05/13(日) 18:04:21 ID:MTKQN63w0

>世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私が、いないはずの同格の者たちの中に
>取り込まれることを<私>が転落すると表現する。そして転落した先は<<単独性>>。
><<単独性>>に転落することによって、同格のものたちの中で、単独の存在としての
>オリジナリティを許される、ここにズレの運動の問題がある。

言いかえるなら、「独在性は、どうしてこの単独性なのか?」ということです。

(つづく)
612カオル(級拳士):2007/05/13(日) 18:06:28 ID:MTKQN63w0

「この私」は、
@「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてる」(独在性の比類なき〈私〉)のに、
なぜか「この私」は、
A「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてる」(単独性のかけがえのない「私」)である。

どうしてこのような「ずれの運動」がまかり通ってしまうのか?
それは「この私」の‘この’がもつ「両義性」のためでしょう。

「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私」と、この私が言うときのその感覚は、
「個人的に私秘的な感覚」と「超越的に私秘的な感覚」との両義性をもちます。(>>34参照)
「超越的に私秘的な感覚」は、‘それ’として自覚された途端に「個人的に私秘的な感覚」に
転落します。しかし‘それ’は、そもそも感覚だったのでしょうか?

  ──「ぼくはなぜ存在するのか」という子ども時代のぼくの問題
  
  小学二年ぐらいまで、ぼくはひどくぼんやりと生きていた。
  世の中がぼくに何を求めているのか、まったくわからなかった。
  ──小学三年のころ──意味が──急にはっきりしてきた。
  
  ──その中にひたりきって生きていたために、かえってはっきりつかむことのできなかったある問題を、
  その外に出てはじめてはっきりとつかんだようだ。──ぼくはたくさん居る人間のうちの一人なんだ、
  といことが実感できた、ということである。
  
  それまで、たぶんぼくは──ぼくというものはまったく特別のもので──それにたいしてすべてが
  存在している原点ようなもの──というふうに感じていた。

  ──あるとき、そういう蒙昧状態がぷつんとおわって──この無自覚的独我論から脱すると同時に、
  ぼくは一つの自覚的な「問題」をかかえこんでしまった。……『〈子ども〉のための哲学』 30〜32n

ここにすべて書かれてあります。いつ読んでも、すばらしい表現力だと思います。(^.^)
613カオル(級拳士):2007/05/13(日) 18:56:27 ID:MTKQN63w0

>カオルはここをよくわかっていないから、人生哲学として永井均を読み解く余地があると勘違いしている。

ものすごいところを責めてきますね。くらべられないことをくらべるのはどうかしてる。
たしかにそうかもしれない、わたしの哲学と永井の哲学をくらべることは不毛かもしれない。

>「ああ、そうですね、私が間違っていました」と言ってごらん。
>そしたらきっとほかの人もカオルの言ってることを聞いてくれると思うから。

こんなに一生懸命になってわたしを叱ってくれるのだから、信頼するあなたがしてくれる
ことなのだから、わたしがまちがっていることは確定しているのですが、「わたしの意見の
ここがこのようにまちがっていました」と、わたしが説明できないのです。それだけです。

>だって、いつも私は悪くない、私は間違っていない、何で私の書いていることを
>読んでくれないのって言ってくるでしょ。カオルはそういう人と議論が出来ると思うかい?

はい。基本的にそういう人としか議論しないし、そういう人しか信頼することができません。
カントもウィトゲンシュタインもまちがいをみとめない人でした。かれらがそれをみとめたとき、
それは哲学史上の決定的に重大な転換期になりました。そういう次元ではまったくないけれども、
わたし個人の次元ではそういうことにしたいと心から願っています。
614名無しさん@一本勝ち:2007/05/13(日) 19:09:49 ID:A0H06A+D0
↑イーの廻し者↑
615カオル(級拳士):2007/05/13(日) 19:22:53 ID:MTKQN63w0
>Bさん
>とりあえず、「教えてあげる」的な物言いは鼻につくのでやめて欲しい。

今回はそんなつもりはありませんでした。ごめんなさい。
でも、わたしがよく「教えてあげる」って言うのは、本当のことです。(^_^;)
(わたしにとって教えてもらえることはとても嬉しいことだから)

>少なくとも永井均に関係する限りの哲学的知識なら私自身それなりに持っているから。

はい、わかっています。というか、今やそれは前提なので。

>(ゼミでライプニッツをやったし、石黒ひでの論文とやらを少しなら読んだよ
>ところでこういう告白って何か気持ち悪くないかい?)

とっても興味があります。もちろん、ここでの問題群を読み解く道具として
どのように利用するのか、という点にですが。キモイ→キショイ→キモチワルイ、
最上級の嫌悪なんてとんでもないです。そうですねー、キモイくらいでしょうか、
なんてウソで、ぜひ聞いてみたいです。ホントに素直にそう思います。
どうしてわたしがそういうことをキモチワルイと思うと思うのでしょうか?

たしかにわたしは大学のそういうゼミとか経験したことがないし、その世界での
論文についてもよく知らないです。たとえば、永井がどのような論文を書いて
教授までのぼりつめたのか興味はあっても、がっかりしそうなので知りたいとは
思わないです。その意味でのそういうお話しに精力的な人には○○○ですけどね。

石黒ひで先生には「ライプニッツの哲学―論理と言語を中心に―」という素晴らしい
著作がありますね。わたしは女性のものはあんまり読まないようにしてるのですが。
ハンナ・アーレント、ジュリア・クリステヴァ、シモーヌ・ヴェイユ、池田昌子……嫉妬してしまうからです。
日本初の女性哲学者として知られる西田幾多郎の姪「高橋ふみ」のこともほんとうは
研究してみたかったりします。とにかく、いろいろたくさん知りたい!と思っているのは
たしかなことです。
616カオル(級拳士):2007/05/13(日) 19:36:03 ID:MTKQN63w0

まちがっている、とわたしが思うことについて、まちがっている、と言っています。
まちがっていると言っていることのその内容がまちがっているとあなたが思うのなら、
そこからがあなたとわたしの議論のはじまりではないでしょうか。議論大歓迎です!

>一流以下学者(やその卵)にありがちなオリジナリティに対するコンプレックスが感じられます。

私的言語がありえない、と言うときのその意味で、本質的にオリジナルは神以外存在しない、
と思っています。

またたとえば、量子力学がニュートン力学を否定するものであると考えるとき、そこに断絶が
生まれて、ニュートン力学にたいして量子力学はオリジナルな原理になるというのは、はたして
本当でしょうか。ニュートン力学が否定(客観性の否定)されると、カント哲学は否定されてしまう
のでしょうか。わたしの見ていない十五夜の満月は、存在しないことになってしまうのでしょうか。
そんなことはなくて、ニュートン力学の否定は量子力学みずからの否定になってしまうのです。
なぜなら、わたしたちの連綿たる歴史の否定はみずからの誕生の否定に他ならないからです。

>永井の議論と直接関係のない知識が流用されすぎです。

関係がないと思うのは、あなたであってわたしではないです。
たしかに今しているこのようなお話しは永井の議論とは関係ないし、
ましてや哲学ではありませんから、厳しいことを言うなら板ちがいです。

わたしの論にたいしての具体的な批判がなされないためにこうなってしまう。
だから、あなたがわたしの論で永井の議論と直接関係がありそうだ、と思う
ところについて批判してくれたらとてもうれしいです。よろしくお願いします。
617名無しさん@一本勝ち:2007/05/13(日) 20:40:19 ID:qIAHC6pZ0
どこからのコピペ?
618名無しさん@一本勝ち:2007/05/13(日) 21:18:37 ID:8N6QEy5R0
>>610
ジエンいいよ
619名無しさん@一本勝ち:2007/05/13(日) 21:28:53 ID:A0H06A+D0
>618

どないな意味?分からんのですが
620カオル(級拳士):2007/05/13(日) 22:26:02 ID:MTKQN63w0

>余計な感情が、議論を込み入らせているのでしょう。
>そうではないと言われますが、自覚してなくても行動に表れてしまうことありますよね。
そうではない、と言ってもそのように受け取られてしまうことにたいして
いくら言い訳しても、それは言い訳なのだから、正当性はそちらにあるのです。
だからこそ、具体的な議論をもとめるのです。そうでなければ、そう思うのは
そちらの勝手なのですものね。でも、永井の人格批判はできるだけやめようと
思います。(永井にも余計な皮肉や揶揄や誘導や差別はやめてほしいですね)
でも、それとわたしの議論の内容とは一切関係ありません。哲学の議論において
そんな致命的な過ちはおかしません。

>とは言うものの、カオルさんの哲学的才能とその議論の品質は評価できますが。
才能は天与のもの、それを評価してもらっても仕方がないです。
議論の品質は努力によるもの、評価してもらえてうれしいです。
けれども、わたしは自分に才能があるとは思っていないですし、
議論の品質が高いと思うこともないので、すべてはけっきょく
だれか様のお陰と思って感謝するしかないようです。そしてあなたにありがとう。
621名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 10:26:06 ID:xB54RCan0
削除依頼でなくて、荒し報告ってどの板だっけ?
622名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 10:49:42 ID:62uUK3kJ0
イーけんに批判的なコメントすると晒されるわけだ
なんとも恐ろしや
確かにあそこの掲示板見てるとそういう雰囲気だもんな
623カオル(級拳士):2007/05/14(月) 10:54:54 ID:wz6iftif0
>ちなみに、永井さんの問いは、Bさんの言われるように、人生の意味とやらとはほぼ無縁でしょうね。
>ここはウィトゲンシュタインとは違いますよ。
もちろん上っ面は100%そうですし、哲学は人生の意味を問うものではないとも思っています。
人生の諸問題を解決するための有効な処世術を身につけるためにするのではありませんから。
でもだからこそ、けっして水面に浮き上がってくることのないそれそのものが哲学なのかも
しれない。哲学がこれほどまでに純粋に何の役にも立たない(水面に浮かぶことがない)のは
そういうことなのではないか、とも思っています。唯一、生きていること、そのこと以外は。

>あと、〈神〉=〈私〉というのは、正しいと思います。
>ただし、どういう神を念頭においているかによりますが。それが一神教的一者なら誤解でしょう。
祈れる神さまは隣人だから、神さまじゃないです。
624カオル(級拳士):2007/05/14(月) 10:57:29 ID:wz6iftif0
それでもわたしもときどき疑うことがあります。(Bさん、ごめんなさい)
永井の思考パターン、あるいは永井のそういう誘導にのって、そのフィルターを
とおしてわたしを批判しているのかもしれないと……それは誠実とはいえないから。

永井がニーチェやウィトゲンシュタインが好きなのは、おそらくかれらの神さまに
たいする誠実さをかいまみたからに他ならない、とわたしは思っています。
ほんとうの自分に誠実になるということは、だから他人に誠実になるということは、
そういうことだと思うからです。

永井の哲学は、あるいは余計な物言いも、この世的な倫理や道徳からは逸脱している
と思います。けれども、最終的なその誠実さにおいては適っているのだと思います。
わたしは、この世的な倫理や道徳を斥けないので、大切なものとしているから、
そこら辺のところが、どうも噛み合わないのかもしれないですね。

議論をするにあたっての前提、わたしの人格からくる態度や姿勢をみるにつけ
議論しようとする気持ちが失せてしまうのは、仕方ないような気がします。
わたしは自分も相手も傷つく議論をしてきたし、そういうことを知っているから。

でもそういうところを覚悟した議論でないなら哲学における議論とは言えない、
とも思っているのです。よかったら議論に参加してみませんか。わたしの論への
質問でも批判でもいいし、新たな問題提起でも、永井をあまり知らないなら素朴な
質問でも結構ですので。よろしくお願いします。(^.^)
625B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 11:00:39 ID:iA8TUce10
>>624  カオル

>それでもわたしもときどき疑うことがあります。
大いに疑ってくれていいよ。でも、私は永井均の軍門に下ったわけだから
永井均の思考に沿って考えることは私にとって全く誠実なことなんだ。

たとえば坂本竜馬は勝海舟を殺しに行ったのに、殺さないで弟子になった。
それは竜馬にとって不誠実な行為というより、実に自然で誠実な行為だったろうと思う。
もちろん私を竜馬と比べるのは不遜だが、気持ちはわかるような気がするなぁ。

でも、誤解しないでほしいのは私は今も勝海舟の命を狙っているということ。
それをまた勝海舟も望んでいるのだし、そういう緊張と信頼の関係の中でしか
この問題が輪郭を現すことはないと思っている。
626B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 11:06:41 ID:iA8TUce10
それと、石黒ひでの件だけど、思い出す限りでは、基体理論と束理論の話でライプニッツを
基体理論支持者だとみなすという論文だったと思う。日本語でなかったような気がする。
普通ライプニッツは完足固体概念があるから、束理論支持者だと考えられがちだけど、
そうじゃなくてむしろ基体理論支持者だと言うところがその論文のテーマだったはず。
彼女はライプニッツが特殊な基体理論をとっていると主張するわけだけど、
私は――無理やり色分けするなら――永井均も特殊な基体理論支持者だと思っている。
(代表的な基体論者にはフッサールなんかがいたはず)
私の理解だと、この私が属性の束であるという立場が束理論であり、そうでなく属性を
所属させる何らかの基となるものがあるという立場が基体理論だと思っている。
永井均の場合、基体にあたる部分をすべての人に無条件で認めるわけではない。
多くの人の中で全く特別なこの私――つまり<私>――が基体になる。
だから、カオルが<私>が「私」に変質するというとき、基体理論から束理論に足場を移してしまっている
わけだけど、あくまで基体理論の内部で、この私の特別さが単独性に転落してしまう、というのが私の理解。
なお、<私>をある種の基体と捉えた場合、<私>とはこの私そのものでありながら、全くの無内容であり(!)、
仮にほかの<私>を認めた場合は、<私>の交換などをしても何の変化も起こらないし、本人もそれに気づくことはない。
これは三部作で永井均が論じていた内容とよく合致すると思う。
627名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 11:35:43 ID:7Y7hOCWA0
  _, ,_
(+・д・)つ  < キャハの自演か!!!
`∪ ⊂☆彡 パーン
 ∪^(ι゚∀゚).・;'
   ∪ ∪
   しーJ
628B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 11:44:47 ID:iA8TUce10
ここまでいろいろと書いてきて何なのだけど、私もおそらく永井均も、こういう色分けに意味があるとは
思っていない。あえて言うなら、むしろ永井均は対立するこの二つの理論に架橋しようと
しているともいえるし、また、こういう理論であらゆるものをはっきりと色分けできると考えていない。
簡単に言えば、根元が違う。だってわれわれの問題は語りえない領域にあるのだから、
はっきりと色分けできると言う立場とは結局、相容れない。

それに本当に問題なのは、基体理論や束理論などの専門的?知識を持っているだけで、
専門的だから正しそうといった印象を与えてしまうことだ。裏返せば、何かの知識を知らないだけで
間違っていると判定されたり、してしまうことこそが最大の問題だといえる。
そうなると哲学は一気にクイズ化するからだ。強迫的教養主義が成立する。
少なくとも私はそんなものに興味はない。
ただ、私は私の問題を問うし、それにかかわる限りの知識を少しずつ集めるだけだろう。

(ちなみにここに書いてある知識はほとんどうろ覚えだからあまり信用しないほうがいいと思うよ)
629名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 12:23:30 ID:moxmmssN0
本当に痛い奴だなぁ↑

話題のすり替えをしている辺り

やはり?と思う怪しさがあるな
630名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 12:28:48 ID:xB54RCan0
このスレの最初から、とりあえずレス削除の依頼出しておいたよ。
名前に「級拳士」とか入れるあたり、規制を怖がってるんだろね。
だけど、そもそもスレと関係のない話題だしねー。
AAの荒らしも酷いもんだったよ。
荒らしの単独スレ立てるかどうかは運営側の判断待ち。
レス削除の投稿フォーム、使いやすくていいね。
スゴイ楽だった
631カオル(級拳士):2007/05/14(月) 12:50:18 ID:uVdWOPVi0
>>628 Bさん
>もう少しテーマを限定的にしぼってみたら?

わたしは独在性にしか興味がないから、同じことの別の表現しかしてないつもり。

>そういう緊張と信頼の関係の中でしかこの問題が輪郭を現すことはないと思っている。

男の友情ですか? 男のエエカッコシイで弱いものが犠牲になるのは確かなことですが。

>私は――無理やり色分けするなら――永井均も特殊な基体理論支持者だと思っている。

私(主観)が基体になったのは、たかだかデカルト、カント以降の近代のことでしかないです。
デカルトとカントにおける哲学の差異そのものが「私がこの私である」ところの私なのでしょう。

>カオルが<私>が「私」に変質するというとき、基体理論から束理論に足場を移してしまっている

ライプニッツ原理とカント原理は、双方が双方の原理として〈ある〉、そして双方の〈ある〉における
存在論的差異そのものが、「私がこの私である」ところの私なのでしょう。……オウム返しか!(^_^;)

>あくまで基体理論の内部で、この私の特別さが単独性に転落してしまう、というのが私の理解。

しかしその特別さは、特別でない‘はず’の、この私のかけがえのなさに、徹底的に依存している。
632見習い拳士:2007/05/14(月) 12:59:00 ID:IG708iD90
永井氏がたびたび批判している哲学探究293節の甲虫の例えの解釈は
はっきり間違ってると思うんだけど。

「<私>の存在の比類なさ」13p4行目
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」

これが永井氏の端的な批判の骨子だと思うのだが、そもそもこれは矛盾していないだろうか。
だって「実は痒みを感じている」のなら(その人が他人を欺こうとしている特別な場合、
或いは哲学者が考えるような異国の民族のように痒い時には我々にとっての「痛み」
のジェスチュアをするように躾られている場合を除いて)
痒そうに振る舞い、「痒い」と言うのではないか。だから「実は」なんて言い方はおかしいのだ。
「それを決定するのは感覚を持つ当人である」んだから彼が「痛い!」と叫んだのなら彼は痛いのだ。

永井氏は無意識にか(或いは意識的にか)言葉に出来ない感覚としての<痛み>を
公的言語、即ち言語ゲームとして通用している「痛み」とを混同している。
これは凄く微妙な哲学的問題だから間違っても仕方の無いところだけど、僕の見るところでは
どうも自分に都合に良いようにこの混同を行っているように見えるなあ。

だって独我論の話では本当の意味での独我論が、それを言葉にすると誰もが理解できる(!)「独我論」
になってしまうことをちゃんと理解しているんだから。それともこの甲虫の話が独我論と同じ形式を
有している事に気付かないでいるのか。
633B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 13:04:24 ID:iA8TUce10
>>632
「痛みを感じるべき場面」て表現が分からない
何によって「べき」と要請されているのか?
外部からの要請を前提とした上で
それと内部での事実とのジレンマがあり得ると言ってるわけですか?
634名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 13:05:45 ID:moxmmssN0
エーケンに比べると崩し技法の方が得るものが大きかっただけに残念だよな
あそこはN先生の技法継承者だから比べる基準が違いすぎるか

まぁ、今の本部の方針からしたら昔の技法よりもエーケン寄りなのかもしれんけど
エーケンサイトに今の少林寺の縮図みたいなものを感じるよな
彼には彼のポリシーがあるんでしょう
ネットでしかコミュニケーション取れないやつらが賛同してくれるからいい気になっちゃったんだろ
何もわかってないくせに革命児みたいな面してるところが気に食わんね

ネットだけでなくて実際の彼も何様気取りみたいな態度だもんな
どうでもいいから支部長からは降りてくれ
635見習い拳士:2007/05/14(月) 13:06:56 ID:IG708iD90
>>634
「痛みを感じるべき場面」は永井氏の文章なので自分に言われても困るが、全く普通に考えて
かなりの強さで顔や体をどこかにぶつけた時とかだろう。麻酔をかけられている場合を除いて
はそれが「痛みを感じるべき場面」の一つの例。

何を誤解してるのかよく分らないのだが、これはもちろん要請なんかじゃない。
「痛み」を要請されるなんてことは役者以外にはあり得ないしね。
636見習い拳士:2007/05/14(月) 13:08:18 ID:IG708iD90
>>633
「痛みを感じるべき場面」は永井氏の文章なので自分に言われても困るが、全く普通に考えて
かなりの強さで顔や体をどこかにぶつけた時とかだろう。麻酔をかけられている場合を除いて
はそれが「痛みを感じるべき場面」の一つの例。

何を誤解してるのかよく分らないのだが、これはもちろん要請なんかじゃない。
「痛み」を要請されるなんてことは役者以外にはあり得ないしね。
637名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 13:09:56 ID:moxmmssN0
↑え「え、けん」がに、してくれぃ!
638B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 13:13:55 ID:iA8TUce10
>>632
>>634

「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」

このときの「感じるべき」の「べき」は、
脈絡や表出といった公的な分節化の仕方から源泉を得た、
定義的に与えられた「べし」でしょう。

そして、この議論のポイントは、痛みがこの定義からは
尽くされない概念的なもので、ある感覚を指示せざるを得ないということ。
それを永井さんは、「痛み」という言葉と、脈絡・表出との結びつきの偶然性
といった感じで表現していたような気がします。
あるいは公共的用法と(私秘的)指示の二側面を持たざるを得ないといった表現。

99さんが、どこに疑問を抱いているかイマイチまだわかりませんが、
この二側面性そのものが「痛み」に適用できることがおかしいということ?
(もちろん、『私・今・そして神』の議論はおいて置いて)
639見習い拳士:2007/05/14(月) 13:18:58 ID:IG708iD90
>>638
僕の議論はごく単純。自分が<痛い>と感じたのならもうこの時点で明らかなように「痛い」という語が
用いられざるを得ない、ということ。(これがウィトゲンシュタインの言うところの
「箱と箱の中身は短絡させられる」ということ)

だから繰り返しになるがその人が嘘をつく場合を除いて(または異なった習慣を持つ異民族)
或る人が「痛い!」と叫んだのなら、またその様に振る舞っているのなら、彼が「実は痒みを感じている」
などということはあり得ない。痛みの振る舞いをしながら「実は痒みを感じている」場合は明らかに
彼が他人を(どういう理由でか)欺こうとしている場合以外あり得ない。(そうでなければ「実は」なんて言ったりしない)

だから
>公共的用法と(私秘的)指示の二側面を持たざるを得ない
というのは「哲学的」誤解だ。そもそもこの二つは分離不可能だから。
640B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 13:35:14 ID:iA8TUce10
>>639
二側面を持たないというのは賛成。
ただ公共的用法は事実言明じゃないのかもしれない。

>或る人が「痛い!」と叫んだのなら、またその様に振る舞っているのなら、
>彼が「実は痒みを感じている」などということはあり得ない。
とは断定できないと思われる。これは明らかに或る人の感覚に関する事実言明にあたる。
感覚は当人以外には感じることができないのであるのなら
少なくともすべての感覚に対する言明は懐疑のそしりを免れない。
641見習い拳士:2007/05/14(月) 13:49:56 ID:IG708iD90
>>640
いや、断定出来るさ。断定できない場合というのはその人が嘘をついている可能性
がある、という表現でしかない。でも彼に嘘をつかなければならない理由が無い
場合は断定できる。そうじゃなきゃ他人の感覚に関する報告はどれも疑わしいって
ことになってしまう。でもそんな疑わしい場合というのは明らかに限られている。

>少なくともすべての感覚に対する言明は懐疑のそしりを免れない。
と言うけど疑えるものは何でも疑わしいわけじゃない。確かに疑える場合があるのは
事実だけど当然普通に痛みを感じている場合があるのは確かだろう。(これは感覚
の存在そのものを疑っている議論じゃないんだから)
642名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 13:55:13 ID:62uUK3kJ0
エーケンマンセー
643名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 13:56:33 ID:62uUK3kJ0
逆らうやつは晒首じゃ・・・明龍
644B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 14:14:43 ID:iA8TUce10
>>641
いや。やっぱり無理だと思う。
公共言語はある感覚を引き起こす状況を指示するだけにしか留まらない。
当のところ何を感じているか、を指示できる正当な根拠に行き着けないんじゃないかな。

だからといって事実言明以外の感覚に関する文が無意味になる訳じゃないし。
645名無しさん@一本勝ち:2007/05/14(月) 14:30:29 ID:moxmmssN0
「え、拳に」してくれ〜
(えぇ(いい)加減にしてくれ〜)

646見習い拳士:2007/05/14(月) 14:48:31 ID:IG708iD90
>>644
じゃあ自分の場合は?この場合に
>公共言語はある感覚を引き起こす状況を指示するだけ留まる。
なんて言うだろうか。
(「…指示するだけにしか留まらない」は日本語としてちょっとおかしいので勝手に訂正。)
647B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 14:58:07 ID:iA8TUce10
>>646
たとえば「痛い!」って言うとき「どこが?」と訊かれる。
「お腹が!」って言うと「なんで?何食った?」と訊かれる。
「期限切れの牛乳を飲んだ!」なら「じゃあこの薬飲め」と返ってくる。
感覚そのものにタッチすることなく感覚のやり取りは終わる。
これが甲虫の箱の短絡のからくり。

けれども自分ではおそらく感覚そのものがブラックボックスになってるんだと思う。
多分それが永井さんのいう「決定するのは感覚を持つ当人である。」なんじゃないかな。
要はどんな対応づけも可能にできるからブラックボックスに「痛み」を置こうが
何を置こうが公共言語の指示を逸脱している。
そもそも公共言語には箱なんか必要ない。
だから感覚そのものに関する公共言語の事実言明は無意味なものだと思う。

念のため
感覚に関する公共言語は事実言明以外は有意味
感覚そのものに関する永井さんの見解には保留
で考えてるけど。
648見習い拳士:2007/05/14(月) 15:15:11 ID:IG708iD90
あ、>公共言語はある感覚を引き起こす状況を指示するだけ「に」留まる。だった。訂正。
>>647
>たとえば「痛い!」って言うとき「どこが?」と訊かれる。
>「お腹が!」って言うと「なんで?何食った?」と訊かれる。
のような他人達とのやり取りは重要じゃないと思う。そういう機能主義的な考えは
ちょっと的を外している。118さんの批判は大森荘蔵には当てはまるかも知れないけど。

>感覚そのものがブラックボックスになってるんだと思う。
というのは「<感覚>そのものは言葉に出来ない」ということでしかない。
でもこれは或る意味で当たり前だ。それなら文字通り
「語りえぬ事柄には沈黙しなければならない」のではないか。

>そもそも公共言語には箱なんか必要ない。
と言ったってこれが無かったら人々の一致が無くなってしまう。いや逆か。
人々の一致があるからこんな哲学的議論が出来るんだから。(だから箱は必要ではない
どころか最初から前提されているんだ。)
649B (BLACK BELT)
>>648
ちょいと確認。
感覚の定義はプラクティスに還元される
したがって公共言語で或る人の感覚そのものを指示することは可能
というのが見習い拳士さんの主張でいいのかな?
その場合、感覚の定義はどんな風に表現しますか?