>>646 たとえば「痛い!」って言うとき「どこが?」と訊かれる。
「お腹が!」って言うと「なんで?何食った?」と訊かれる。
「期限切れの牛乳を飲んだ!」なら「じゃあこの薬飲め」と返ってくる。
感覚そのものにタッチすることなく感覚のやり取りは終わる。
これが甲虫の箱の短絡のからくり。
けれども自分ではおそらく感覚そのものがブラックボックスになってるんだと思う。
多分それが永井さんのいう「決定するのは感覚を持つ当人である。」なんじゃないかな。
要はどんな対応づけも可能にできるからブラックボックスに「痛み」を置こうが
何を置こうが公共言語の指示を逸脱している。
そもそも公共言語には箱なんか必要ない。
だから感覚そのものに関する公共言語の事実言明は無意味なものだと思う。
念のため
感覚に関する公共言語は事実言明以外は有意味
感覚そのものに関する永井さんの見解には保留
で考えてるけど。