>>638 僕の議論はごく単純。自分が<痛い>と感じたのならもうこの時点で明らかなように「痛い」という語が
用いられざるを得ない、ということ。(これがウィトゲンシュタインの言うところの
「箱と箱の中身は短絡させられる」ということ)
だから繰り返しになるがその人が嘘をつく場合を除いて(または異なった習慣を持つ異民族)
或る人が「痛い!」と叫んだのなら、またその様に振る舞っているのなら、彼が「実は痒みを感じている」
などということはあり得ない。痛みの振る舞いをしながら「実は痒みを感じている」場合は明らかに
彼が他人を(どういう理由でか)欺こうとしている場合以外あり得ない。(そうでなければ「実は」なんて言ったりしない)
だから
>公共的用法と(私秘的)指示の二側面を持たざるを得ない
というのは「哲学的」誤解だ。そもそもこの二つは分離不可能だから。