>>632 >>634 「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
このときの「感じるべき」の「べき」は、
脈絡や表出といった公的な分節化の仕方から源泉を得た、
定義的に与えられた「べし」でしょう。
そして、この議論のポイントは、痛みがこの定義からは
尽くされない概念的なもので、ある感覚を指示せざるを得ないということ。
それを永井さんは、「痛み」という言葉と、脈絡・表出との結びつきの偶然性
といった感じで表現していたような気がします。
あるいは公共的用法と(私秘的)指示の二側面を持たざるを得ないといった表現。
99さんが、どこに疑問を抱いているかイマイチまだわかりませんが、
この二側面性そのものが「痛み」に適用できることがおかしいということ?
(もちろん、『私・今・そして神』の議論はおいて置いて)