少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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632見習い拳士
永井氏がたびたび批判している哲学探究293節の甲虫の例えの解釈は
はっきり間違ってると思うんだけど。

「<私>の存在の比類なさ」13p4行目
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」

これが永井氏の端的な批判の骨子だと思うのだが、そもそもこれは矛盾していないだろうか。
だって「実は痒みを感じている」のなら(その人が他人を欺こうとしている特別な場合、
或いは哲学者が考えるような異国の民族のように痒い時には我々にとっての「痛み」
のジェスチュアをするように躾られている場合を除いて)
痒そうに振る舞い、「痒い」と言うのではないか。だから「実は」なんて言い方はおかしいのだ。
「それを決定するのは感覚を持つ当人である」んだから彼が「痛い!」と叫んだのなら彼は痛いのだ。

永井氏は無意識にか(或いは意識的にか)言葉に出来ない感覚としての<痛み>を
公的言語、即ち言語ゲームとして通用している「痛み」とを混同している。
これは凄く微妙な哲学的問題だから間違っても仕方の無いところだけど、僕の見るところでは
どうも自分に都合に良いようにこの混同を行っているように見えるなあ。

だって独我論の話では本当の意味での独我論が、それを言葉にすると誰もが理解できる(!)「独我論」
になってしまうことをちゃんと理解しているんだから。それともこの甲虫の話が独我論と同じ形式を
有している事に気付かないでいるのか。