少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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631カオル(級拳士)
>>628 Bさん
>もう少しテーマを限定的にしぼってみたら?

わたしは独在性にしか興味がないから、同じことの別の表現しかしてないつもり。

>そういう緊張と信頼の関係の中でしかこの問題が輪郭を現すことはないと思っている。

男の友情ですか? 男のエエカッコシイで弱いものが犠牲になるのは確かなことですが。

>私は――無理やり色分けするなら――永井均も特殊な基体理論支持者だと思っている。

私(主観)が基体になったのは、たかだかデカルト、カント以降の近代のことでしかないです。
デカルトとカントにおける哲学の差異そのものが「私がこの私である」ところの私なのでしょう。

>カオルが<私>が「私」に変質するというとき、基体理論から束理論に足場を移してしまっている

ライプニッツ原理とカント原理は、双方が双方の原理として〈ある〉、そして双方の〈ある〉における
存在論的差異そのものが、「私がこの私である」ところの私なのでしょう。……オウム返しか!(^_^;)

>あくまで基体理論の内部で、この私の特別さが単独性に転落してしまう、というのが私の理解。

しかしその特別さは、特別でない‘はず’の、この私のかけがえのなさに、徹底的に依存している。