それと、石黒ひでの件だけど、思い出す限りでは、基体理論と束理論の話でライプニッツを
基体理論支持者だとみなすという論文だったと思う。日本語でなかったような気がする。
普通ライプニッツは完足固体概念があるから、束理論支持者だと考えられがちだけど、
そうじゃなくてむしろ基体理論支持者だと言うところがその論文のテーマだったはず。
彼女はライプニッツが特殊な基体理論をとっていると主張するわけだけど、
私は――無理やり色分けするなら――永井均も特殊な基体理論支持者だと思っている。
(代表的な基体論者にはフッサールなんかがいたはず)
私の理解だと、この私が属性の束であるという立場が束理論であり、そうでなく属性を
所属させる何らかの基となるものがあるという立場が基体理論だと思っている。
永井均の場合、基体にあたる部分をすべての人に無条件で認めるわけではない。
多くの人の中で全く特別なこの私――つまり<私>――が基体になる。
だから、カオルが<私>が「私」に変質するというとき、基体理論から束理論に足場を移してしまっている
わけだけど、あくまで基体理論の内部で、この私の特別さが単独性に転落してしまう、というのが私の理解。
なお、<私>をある種の基体と捉えた場合、<私>とはこの私そのものでありながら、全くの無内容であり(!)、
仮にほかの<私>を認めた場合は、<私>の交換などをしても何の変化も起こらないし、本人もそれに気づくことはない。
これは三部作で永井均が論じていた内容とよく合致すると思う。