少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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623カオル(級拳士)
>ちなみに、永井さんの問いは、Bさんの言われるように、人生の意味とやらとはほぼ無縁でしょうね。
>ここはウィトゲンシュタインとは違いますよ。
もちろん上っ面は100%そうですし、哲学は人生の意味を問うものではないとも思っています。
人生の諸問題を解決するための有効な処世術を身につけるためにするのではありませんから。
でもだからこそ、けっして水面に浮き上がってくることのないそれそのものが哲学なのかも
しれない。哲学がこれほどまでに純粋に何の役にも立たない(水面に浮かぶことがない)のは
そういうことなのではないか、とも思っています。唯一、生きていること、そのこと以外は。

>あと、〈神〉=〈私〉というのは、正しいと思います。
>ただし、どういう神を念頭においているかによりますが。それが一神教的一者なら誤解でしょう。
祈れる神さまは隣人だから、神さまじゃないです。
624カオル(級拳士):2007/05/14(月) 10:57:29 ID:wz6iftif0
それでもわたしもときどき疑うことがあります。(Bさん、ごめんなさい)
永井の思考パターン、あるいは永井のそういう誘導にのって、そのフィルターを
とおしてわたしを批判しているのかもしれないと……それは誠実とはいえないから。

永井がニーチェやウィトゲンシュタインが好きなのは、おそらくかれらの神さまに
たいする誠実さをかいまみたからに他ならない、とわたしは思っています。
ほんとうの自分に誠実になるということは、だから他人に誠実になるということは、
そういうことだと思うからです。

永井の哲学は、あるいは余計な物言いも、この世的な倫理や道徳からは逸脱している
と思います。けれども、最終的なその誠実さにおいては適っているのだと思います。
わたしは、この世的な倫理や道徳を斥けないので、大切なものとしているから、
そこら辺のところが、どうも噛み合わないのかもしれないですね。

議論をするにあたっての前提、わたしの人格からくる態度や姿勢をみるにつけ
議論しようとする気持ちが失せてしまうのは、仕方ないような気がします。
わたしは自分も相手も傷つく議論をしてきたし、そういうことを知っているから。

でもそういうところを覚悟した議論でないなら哲学における議論とは言えない、
とも思っているのです。よかったら議論に参加してみませんか。わたしの論への
質問でも批判でもいいし、新たな問題提起でも、永井をあまり知らないなら素朴な
質問でも結構ですので。よろしくお願いします。(^.^)
625B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 11:00:39 ID:iA8TUce10
>>624  カオル

>それでもわたしもときどき疑うことがあります。
大いに疑ってくれていいよ。でも、私は永井均の軍門に下ったわけだから
永井均の思考に沿って考えることは私にとって全く誠実なことなんだ。

たとえば坂本竜馬は勝海舟を殺しに行ったのに、殺さないで弟子になった。
それは竜馬にとって不誠実な行為というより、実に自然で誠実な行為だったろうと思う。
もちろん私を竜馬と比べるのは不遜だが、気持ちはわかるような気がするなぁ。

でも、誤解しないでほしいのは私は今も勝海舟の命を狙っているということ。
それをまた勝海舟も望んでいるのだし、そういう緊張と信頼の関係の中でしか
この問題が輪郭を現すことはないと思っている。
626B (BLACK BELT):2007/05/14(月) 11:06:41 ID:iA8TUce10
それと、石黒ひでの件だけど、思い出す限りでは、基体理論と束理論の話でライプニッツを
基体理論支持者だとみなすという論文だったと思う。日本語でなかったような気がする。
普通ライプニッツは完足固体概念があるから、束理論支持者だと考えられがちだけど、
そうじゃなくてむしろ基体理論支持者だと言うところがその論文のテーマだったはず。
彼女はライプニッツが特殊な基体理論をとっていると主張するわけだけど、
私は――無理やり色分けするなら――永井均も特殊な基体理論支持者だと思っている。
(代表的な基体論者にはフッサールなんかがいたはず)
私の理解だと、この私が属性の束であるという立場が束理論であり、そうでなく属性を
所属させる何らかの基となるものがあるという立場が基体理論だと思っている。
永井均の場合、基体にあたる部分をすべての人に無条件で認めるわけではない。
多くの人の中で全く特別なこの私――つまり<私>――が基体になる。
だから、カオルが<私>が「私」に変質するというとき、基体理論から束理論に足場を移してしまっている
わけだけど、あくまで基体理論の内部で、この私の特別さが単独性に転落してしまう、というのが私の理解。
なお、<私>をある種の基体と捉えた場合、<私>とはこの私そのものでありながら、全くの無内容であり(!)、
仮にほかの<私>を認めた場合は、<私>の交換などをしても何の変化も起こらないし、本人もそれに気づくことはない。
これは三部作で永井均が論じていた内容とよく合致すると思う。