「この私」は、
@「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてる」(独在性の比類なき〈私〉)のに、
なぜか「この私」は、
A「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてる」(単独性のかけがえのない「私」)である。
どうしてこのような「ずれの運動」がまかり通ってしまうのか?
それは「この私」の‘この’がもつ「両義性」のためでしょう。
「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私」と、この私が言うときのその感覚は、
「個人的に私秘的な感覚」と「超越的に私秘的な感覚」との両義性をもちます。(
>>34参照)
「超越的に私秘的な感覚」は、‘それ’として自覚された途端に「個人的に私秘的な感覚」に
転落します。しかし‘それ’は、そもそも感覚だったのでしょうか?
──「ぼくはなぜ存在するのか」という子ども時代のぼくの問題
小学二年ぐらいまで、ぼくはひどくぼんやりと生きていた。
世の中がぼくに何を求めているのか、まったくわからなかった。
──小学三年のころ──意味が──急にはっきりしてきた。
──その中にひたりきって生きていたために、かえってはっきりつかむことのできなかったある問題を、
その外に出てはじめてはっきりとつかんだようだ。──ぼくはたくさん居る人間のうちの一人なんだ、
といことが実感できた、ということである。
それまで、たぶんぼくは──ぼくというものはまったく特別のもので──それにたいしてすべてが
存在している原点ようなもの──というふうに感じていた。
──あるとき、そういう蒙昧状態がぷつんとおわって──この無自覚的独我論から脱すると同時に、
ぼくは一つの自覚的な「問題」をかかえこんでしまった。……『〈子ども〉のための哲学』 30〜32n
ここにすべて書かれてあります。いつ読んでも、すばらしい表現力だと思います。(^.^)