少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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611カオル(級拳士)

>世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私が、いないはずの同格の者たちの中に
>取り込まれることを<私>が転落すると表現する。そして転落した先は<<単独性>>。
><<単独性>>に転落することによって、同格のものたちの中で、単独の存在としての
>オリジナリティを許される、ここにズレの運動の問題がある。

言いかえるなら、「独在性は、どうしてこの単独性なのか?」ということです。

(つづく)
612カオル(級拳士):2007/05/13(日) 18:06:28 ID:MTKQN63w0

「この私」は、
@「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてる」(独在性の比類なき〈私〉)のに、
なぜか「この私」は、
A「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてる」(単独性のかけがえのない「私」)である。

どうしてこのような「ずれの運動」がまかり通ってしまうのか?
それは「この私」の‘この’がもつ「両義性」のためでしょう。

「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私」と、この私が言うときのその感覚は、
「個人的に私秘的な感覚」と「超越的に私秘的な感覚」との両義性をもちます。(>>34参照)
「超越的に私秘的な感覚」は、‘それ’として自覚された途端に「個人的に私秘的な感覚」に
転落します。しかし‘それ’は、そもそも感覚だったのでしょうか?

  ──「ぼくはなぜ存在するのか」という子ども時代のぼくの問題
  
  小学二年ぐらいまで、ぼくはひどくぼんやりと生きていた。
  世の中がぼくに何を求めているのか、まったくわからなかった。
  ──小学三年のころ──意味が──急にはっきりしてきた。
  
  ──その中にひたりきって生きていたために、かえってはっきりつかむことのできなかったある問題を、
  その外に出てはじめてはっきりとつかんだようだ。──ぼくはたくさん居る人間のうちの一人なんだ、
  といことが実感できた、ということである。
  
  それまで、たぶんぼくは──ぼくというものはまったく特別のもので──それにたいしてすべてが
  存在している原点ようなもの──というふうに感じていた。

  ──あるとき、そういう蒙昧状態がぷつんとおわって──この無自覚的独我論から脱すると同時に、
  ぼくは一つの自覚的な「問題」をかかえこんでしまった。……『〈子ども〉のための哲学』 30〜32n

ここにすべて書かれてあります。いつ読んでも、すばらしい表現力だと思います。(^.^)
613カオル(級拳士):2007/05/13(日) 18:56:27 ID:MTKQN63w0

>カオルはここをよくわかっていないから、人生哲学として永井均を読み解く余地があると勘違いしている。

ものすごいところを責めてきますね。くらべられないことをくらべるのはどうかしてる。
たしかにそうかもしれない、わたしの哲学と永井の哲学をくらべることは不毛かもしれない。

>「ああ、そうですね、私が間違っていました」と言ってごらん。
>そしたらきっとほかの人もカオルの言ってることを聞いてくれると思うから。

こんなに一生懸命になってわたしを叱ってくれるのだから、信頼するあなたがしてくれる
ことなのだから、わたしがまちがっていることは確定しているのですが、「わたしの意見の
ここがこのようにまちがっていました」と、わたしが説明できないのです。それだけです。

>だって、いつも私は悪くない、私は間違っていない、何で私の書いていることを
>読んでくれないのって言ってくるでしょ。カオルはそういう人と議論が出来ると思うかい?

はい。基本的にそういう人としか議論しないし、そういう人しか信頼することができません。
カントもウィトゲンシュタインもまちがいをみとめない人でした。かれらがそれをみとめたとき、
それは哲学史上の決定的に重大な転換期になりました。そういう次元ではまったくないけれども、
わたし個人の次元ではそういうことにしたいと心から願っています。