少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

このエントリーをはてなブックマークに追加
609カオル(級拳士)

>また、カオルはよく、「ズレの運動」として<私>が「私」に変わると言うけれど(>>14

‘とりあえず’でも、「存在者として存在」するためには、〈私〉でも‘それ’でも、とにかく
読み替えられなければならない。そうでないなら、何かしらの言表をするのでないなら、
そこには沈黙の空白しか残らない?からです。たとえそれこそが真実なのだとしても、
哲学は禅の修行じゃないのです。瞑想によって悟ることにくらべたら、それは漸近線を
描くような営みであって、けっして真実そのものには到達しないのかもしれないけれど、
哲学徒は、そのようにしかできないし、したくないのだから、仕方ないのです。(笑)

「私」は存在者であり、〈私〉はその存在者の否定として〈ある〉のだから、あたかも
〈私〉という存在者がいて、それが「私」に変化する、なんてことは夢にも想いません。
〈私〉と「私」との結びつきに論理的な必然性がまったくないことを明らかにした永井は、
にもかかわらず、どうして「私は、この私なのか?」と問うているのではないでしょうか。

>「私」というのはたまたまこの私が持っている属性であって、<独在性>は(本来)
>そんなものとは無関係。

「本来」というのは、どの本来なのか? それは可能なのか? と、思ってしまいます。
純粋に独在性の〈私〉そのものになるというようなことが、かりに可能であったとして、
それが実現してはじめて、「本来」といえるはずだからです。無謀な話しをしていると
思われるでしょうけど、やはり「この私」がそれを知っているのでなかったなら、どうして
──私は、どうしてこの私なのか──という問いが可能になったのか、と思うのです。
もちろん、わたしの想定は実現することはなく、なぜなら独在性の〈私〉は、「実現」の
否定として〈ある〉からです、というような運動が、すなわち「ずれの運動」だからです。