ウィトゲンシュタインが『探究』において指し示したのは、超越論的なものとしては生活形式
のみであり、あとは一切語らなかった、もちろん独我論についても。私的言語を否定したのも、
私的言語を、ふつうに理解される意味での私的言語に読み替えられないようにするためです。
ウィトゲンシュタインのこのようなやり方は一貫していて、たとえば『論考』において倫理学、
形而上学、美学、宗教……における諸命題を「イミないじゃんみたいな」(nonsensical)もの
としたのも、論理学、数学、プログラミング、自然科学……の言語から、倫理学、形而上学、
美学、宗教……の言語を峻別することによって、後者の言語の前者の言語への読み替え
──たとえば「私」の物理主義的、心理主義的な還元や、「私の理解する唯一の言語」以外
への翻訳など──からの擁護だったのです。「イミないじゃんみたいな」ものこそが、「意味
ある」ものなのだ、だから両者を混同してはならない、というのが彼の格率だったからです。