少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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607カオル(級拳士)
>>606 Bさん
>公共言語を成立させるものとして私的言語を簡単に認めてしまうと
>問題はほとんど問い終わってしまう。(>>34の3段落目など)

ウィトゲンシュタインは『探究』において、もう独我論を語らなかった、それは『論考』
とともに、あとは読者のあなたにまかせます、ということなのだとわたしは思いました。
ウィトゲンシュタインが『探究』で指し示したのは、わたしたち言語存在者にとっての
岩盤、『論考』で指し示したそれとはべつの、もうひとつの生活形式という岩盤でした。

永井は、あくまで『論考』よりの独我論の立場から、〈私〉によって『探究』を包摂しようと
しているかのようにみえます。『論考』の指し示した「私」を超えた〈私〉、実在論と純粋に
重なり合う‘それ’を、『探究』や『青色本』の言語分析の記述の中で、まさに姿なき歴史
の暴力によってかき消されてしまおうとしている‘それ’を、藁にもすがるような思いで探し
求めているかのようにみえます。わたしは永井の著作においてその哀しき行為に触れる
たびに深く深くそれに共感し、わたしと同じ問いを抱えて生きていることを錯覚してしまう。
いえ、そうではなくて、わたしの死の予感を、ほんとうの他者の影をみてしまうのでしょう。