少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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605カオル(級拳士)

>こういう態度の人と何を議論したらいいのか、何の議論ができるのかはよくわからない。

まだ具体的に何一つ議論してないのですから、してみてから考えてみてはどうでしょうか?

>もう少し肩の力を抜いて、無理やり反対したり、無理やり賛成したり、

そうではなくて(これが無理に反対?)、たとえばAさんがaという立場からa’
という意見をいう、するとわたしはbという立場からb’「そうではない」と反論する。
かりにAさんが、わたしのbという立場からの意見b’に納得したとすると、わたしは
今度は、aという立場から、あるいはc、dという立場から、b’の意見(自分の論)に
たいして再反論する。もしかりにbの立場になったAさんが、さらに強力なb’の意見で
対抗してきて、そこでわたしが反論できなければ、とりあえずはその強力な意見b’を
正しいものとして暫定的に受け入れます。つまり、a’とb’の意見を相互に関係づける、
というメタレベルの視点、あるいは原理を手に入れたいわけです。(たとえばのお話し)

体よくいえば、いわゆるヘーゲル弁証法といわれる方法論です。ちなみに西田はこれを
批判して、絶対矛盾における自己の同一……〈私〉は、この「私」である……という
永井で言う「ずれの運動」こそが、真の弁証法(絶対否定即$竭ホ肯定)だととらえて
いました。

予定されている新刊「西田幾多郎」─絶対無とは何か─に‘無理やり?’あてはめると、
絶対無〈私〉の自己限定「私」という相互に相互の原理であるという原理「相即の原理」、
永井の表現なら「開闢が開闢された世界に位置づけられる」「私的言語が可能である
ことがそのまま即℃的言語を不可能にする」という「ずれの運動」のことになります。

>無理やり哲学的知識を織り交ぜたりしないで(もちろん自然にならいいんだけど)、

もちろん自然です。そう言ってもらえて、なんだかとっても嬉しい。ありがとう。(^.^)