少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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604カオル(級拳士)

>カオルの権威に対する執着はとても強い。

才能や努力によって身についた権威、だからこその相応しい態度や姿勢にたいして
わたしは素直です。相応しくない態度や姿勢にたいしては、わたしは反発します。

>カオルのレスを読めばわかるが、哲学的知識をとても重要視している。

才能や努力によって身についた知識、だからこそ言える意見について、わたしは素直です。

>一方で、そういう哲学的知識が豊富な人を批判してきたという過去を持つ。

そうではなくて、博覧を誇る人(そうでない人をいやしめ見下す人)や、博覧でなければ
哲学ができないように言う人…を批判してきました。碩学たちはそのようにはなりません。
でもだからといって、浅学非才なのに勉強もしないでプライドだけ高くて素直でない人は
もっと嫌いです。

ロムるだけで、ちっとも書き込めなかったわたしの記念初カキコは「哲学は暗記です。」
というスレでした。もちろん、わたしのことだから、

  知識は真理に至るための手段でしかなく、しかも知識は真理を希求する精神にとっては、
  かならずしも合理的な手段とはかぎらず、たとえそれが論理にかなったもので、客観的
  に正当であるにしても、それはあくまで学問的知識であって、哲学のもとめる知恵では
  ないのです。真理を希求する精神とっては、この命もこの体も手段のひとつでしかなく、
  日々の生活、家庭人/社会人としての経験、すべてが真理に至るための手段なのです。

みたいなことを書いていたはず、です。このような意見であることは今でも変わってません。
605カオル(級拳士):2007/05/13(日) 01:06:42 ID:vMxHammD0

>こういう態度の人と何を議論したらいいのか、何の議論ができるのかはよくわからない。

まだ具体的に何一つ議論してないのですから、してみてから考えてみてはどうでしょうか?

>もう少し肩の力を抜いて、無理やり反対したり、無理やり賛成したり、

そうではなくて(これが無理に反対?)、たとえばAさんがaという立場からa’
という意見をいう、するとわたしはbという立場からb’「そうではない」と反論する。
かりにAさんが、わたしのbという立場からの意見b’に納得したとすると、わたしは
今度は、aという立場から、あるいはc、dという立場から、b’の意見(自分の論)に
たいして再反論する。もしかりにbの立場になったAさんが、さらに強力なb’の意見で
対抗してきて、そこでわたしが反論できなければ、とりあえずはその強力な意見b’を
正しいものとして暫定的に受け入れます。つまり、a’とb’の意見を相互に関係づける、
というメタレベルの視点、あるいは原理を手に入れたいわけです。(たとえばのお話し)

体よくいえば、いわゆるヘーゲル弁証法といわれる方法論です。ちなみに西田はこれを
批判して、絶対矛盾における自己の同一……〈私〉は、この「私」である……という
永井で言う「ずれの運動」こそが、真の弁証法(絶対否定即$竭ホ肯定)だととらえて
いました。

予定されている新刊「西田幾多郎」─絶対無とは何か─に‘無理やり?’あてはめると、
絶対無〈私〉の自己限定「私」という相互に相互の原理であるという原理「相即の原理」、
永井の表現なら「開闢が開闢された世界に位置づけられる」「私的言語が可能である
ことがそのまま即℃的言語を不可能にする」という「ずれの運動」のことになります。

>無理やり哲学的知識を織り交ぜたりしないで(もちろん自然にならいいんだけど)、

もちろん自然です。そう言ってもらえて、なんだかとっても嬉しい。ありがとう。(^.^)
606B (BLACK BELT):2007/05/13(日) 02:42:59 ID:5l8iSBd00
>だから、このような具体的な議論とは関係のない書き込みで、肝心のレスが流れて
>しまうことが、とっても残念で悔しいです。

それもそうだろうなぁ。じゃあ、邪魔しないからどうぞ。
でも、友人としておせっかいをやくなら、しっかり自分の足元を明らかにして議論することと
テーマを明確にすることは大切だと思う。そうじゃないとレスをする人は大変だと思うよ。

それとあえて苦言を呈するなら、
永井均の私的言語論においては、公共言語を成立させるための私的言語という箇所が、
世界内存在としての「私」が、世界を開くものとしての<私>と捉えなおされることと
大いに関係しているのだから、公共言語を成立させるものとして私的言語を簡単に認めてしまうと
問題はほとんど問い終わってしまう。(>>563の3段落目など)
またそういう類比関係を見逃したまま、「生活形式」だとか「コト分け」だとかを
論じても得るものは少ないと言わざるをえないだろう。
また、カオルはよく、「ズレの運動」として<私>が「私」に変わると言うけれど
それは明らかに間違い。<私>は<<私>>に転落する。「私」というのは
たまたまこの私が持っている属性であって、<独在性>は(本来)そんなものとは無関係。
世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私が、いないはずの同格の者たちの中に
取り込まれることを<私>が転落すると表現する。そして転落した先は<<単独性>>。
<<単独性>>に転落することによって、同格のものたちの中で、単独の存在としての
オリジナリティを許される、ここにズレの運動の問題がある。
カオルはここをよくわかっていないから、人生哲学として永井均を読み解く余地があると勘違いしている。

「ああ、そうですね、私が間違っていました」と言ってごらん。
そしたらきっとほかの人もカオルの言ってることを聞いてくれると思うから。
だって、いつも私は悪くない、私は間違っていない、何で私の書いていることを読んでくれないの
って言ってくるでしょ。カオルはそういう人と議論が出来ると思うかい?
607カオル(級拳士):2007/05/13(日) 10:34:16 ID:vMxHammD0
>>606 Bさん
>公共言語を成立させるものとして私的言語を簡単に認めてしまうと
>問題はほとんど問い終わってしまう。(>>34の3段落目など)

ウィトゲンシュタインは『探究』において、もう独我論を語らなかった、それは『論考』
とともに、あとは読者のあなたにまかせます、ということなのだとわたしは思いました。
ウィトゲンシュタインが『探究』で指し示したのは、わたしたち言語存在者にとっての
岩盤、『論考』で指し示したそれとはべつの、もうひとつの生活形式という岩盤でした。

永井は、あくまで『論考』よりの独我論の立場から、〈私〉によって『探究』を包摂しようと
しているかのようにみえます。『論考』の指し示した「私」を超えた〈私〉、実在論と純粋に
重なり合う‘それ’を、『探究』や『青色本』の言語分析の記述の中で、まさに姿なき歴史
の暴力によってかき消されてしまおうとしている‘それ’を、藁にもすがるような思いで探し
求めているかのようにみえます。わたしは永井の著作においてその哀しき行為に触れる
たびに深く深くそれに共感し、わたしと同じ問いを抱えて生きていることを錯覚してしまう。
いえ、そうではなくて、わたしの死の予感を、ほんとうの他者の影をみてしまうのでしょう。
608カオル(級拳士):2007/05/13(日) 10:35:58 ID:vMxHammD0
ウィトゲンシュタインが『探究』において指し示したのは、超越論的なものとしては生活形式
のみであり、あとは一切語らなかった、もちろん独我論についても。私的言語を否定したのも、
私的言語を、ふつうに理解される意味での私的言語に読み替えられないようにするためです。

ウィトゲンシュタインのこのようなやり方は一貫していて、たとえば『論考』において倫理学、
形而上学、美学、宗教……における諸命題を「イミないじゃんみたいな」(nonsensical)もの
としたのも、論理学、数学、プログラミング、自然科学……の言語から、倫理学、形而上学、
美学、宗教……の言語を峻別することによって、後者の言語の前者の言語への読み替え
──たとえば「私」の物理主義的、心理主義的な還元や、「私の理解する唯一の言語」以外
への翻訳など──からの擁護だったのです。「イミないじゃんみたいな」ものこそが、「意味
ある」ものなのだ、だから両者を混同してはならない、というのが彼の格率だったからです。
609カオル(級拳士):2007/05/13(日) 17:14:45 ID:MTKQN63w0

>また、カオルはよく、「ズレの運動」として<私>が「私」に変わると言うけれど(>>14

‘とりあえず’でも、「存在者として存在」するためには、〈私〉でも‘それ’でも、とにかく
読み替えられなければならない。そうでないなら、何かしらの言表をするのでないなら、
そこには沈黙の空白しか残らない?からです。たとえそれこそが真実なのだとしても、
哲学は禅の修行じゃないのです。瞑想によって悟ることにくらべたら、それは漸近線を
描くような営みであって、けっして真実そのものには到達しないのかもしれないけれど、
哲学徒は、そのようにしかできないし、したくないのだから、仕方ないのです。(笑)

「私」は存在者であり、〈私〉はその存在者の否定として〈ある〉のだから、あたかも
〈私〉という存在者がいて、それが「私」に変化する、なんてことは夢にも想いません。
〈私〉と「私」との結びつきに論理的な必然性がまったくないことを明らかにした永井は、
にもかかわらず、どうして「私は、この私なのか?」と問うているのではないでしょうか。

>「私」というのはたまたまこの私が持っている属性であって、<独在性>は(本来)
>そんなものとは無関係。

「本来」というのは、どの本来なのか? それは可能なのか? と、思ってしまいます。
純粋に独在性の〈私〉そのものになるというようなことが、かりに可能であったとして、
それが実現してはじめて、「本来」といえるはずだからです。無謀な話しをしていると
思われるでしょうけど、やはり「この私」がそれを知っているのでなかったなら、どうして
──私は、どうしてこの私なのか──という問いが可能になったのか、と思うのです。
もちろん、わたしの想定は実現することはなく、なぜなら独在性の〈私〉は、「実現」の
否定として〈ある〉からです、というような運動が、すなわち「ずれの運動」だからです。