少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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583カオル(級拳士)

わたしたちのだれひとりとして、〈私〉を理解することはできない。
なぜなら、この世にはけっして存在しない〈魂〉のことだからです。
一切の現象の否定として〈ある〉のだから、〈ない〉ものなのです。
〈ない〉ものを表現しようとすることを、この世では背理と言います。
このようなまちがったこと、無意味なこと、理屈に合わないことを
するのが哲学における存在論であり形而上学なのだと思います。

この世にはけっして存在しない〈魂〉は、一切の言表を拒否します。
それ以前に想像されることさえ許しません。存在しないのだから。
それ 何か ある 〈私〉 超越 無 絶対…どんな記述であっても
それが言語であるなら、すでにそこにほんとうの姿はないのです。

ですから、この問題を‘だれか’が言表すること(‘だれか’が言表
しているとしかとらえられないこと)そのことがすでに比類なき〈私〉
から果てしなく遠いのです。なぜなら、だれの問題でもなく、永井
たった独りの‘だれか’ではない〈私〉の問題なのだから。
584カオル(級拳士):2007/05/12(土) 12:24:14 ID:mVB8oLce0
だから、永井の著作を読みそこから示唆を得たり、刺激を受けたり、
啓発されたり…ということが永井の言説にたいして向けられている
かぎり、あるいはテクストを引用して「公」の問題として批判している
かぎり、そのこと自体がすでに独在性の問題について何もわかって
いないことの証明でもあるのです。( → Bさんのカオル批判 )

けれど、はじめから批判を許さないような想定が、この「公」の場で
許されても良いのでしょうか? たしかにこの問題が自分の問題に
なったのなら、自分と永井の論を比較検討することは無意味です。
なぜなら、比べることのできない問題だからです。

どんなに批判されようと、批判されえない神は、しかし人間によって
その批判する人間を断罪する。わたしは地獄ゆきでかまわないです。
哲学徒としてその覚悟はあります。(でもわたしはあなたに謝ります)