少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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578カオル(級拳士)

>いわゆる「言語以前」が単純な「言語以前」だと言語は習得できないし、使用不可能だろう。
>なぜなら、「黒板消し」を指して「こ・く・ば・ん・け・し」と教えてやっても
>その指が「黒板消し」なのか、そこにある黒板消しひとつだけが「黒板消し」なのか
>指し示された状態が「黒板消し」なのか理解できないからだ。
>少なくとも何らかの意味で「言語以前」は言語的でなければならない。
>(この類の話を永井均もしていたはずだ)

ここで為されている説明が指し示しているのが、まさに「生活形式」と呼ばれているものです。
「教えられたから理解した」のではなく、「教えられたから理解した」かのように振る舞ったので、
つまり、理解したかのように言葉が通じたり、理解しているかのように言葉を使用したりするのは、
私たちが「生活形式」を共有(位相同型)しているから、というのがウィトゲンシュタインの『探究』
における議論でした。

それにたいして永井は、かりに「教えられたから理解した」のであっても(というか事実そうでしか
ありえないと言っています)、「私の言語」の不変性の内部にある「私の(理解する)意味で」
「教えられたから」、「私の言語」の不変性の内部にある「私の(理解する)意味で」「理解した」の
であって、この「私の(理解する)意味で」を「私の理解する唯一の言語」で他人に向かって語る
ことはパラドキシカルである、と言っています。……『私・今・そして神』 198〜199n

前者も後者もともに「言語の使用が可能になる条件」として「超越論的」に要請されています。
この「超越論的」を「発生論的」に「以前/起源」へと溯ることは価値のある考察だと思います。