少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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577カオル(級拳士)
>>43 Bさん
>この発言はあらゆる私的な言語を否定しているのだから、結果的にここで言われる言語とは
>公共言語ということになる。

はい。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」を「それは誰にでも妥当する一般的言明」だと言う
その意味では、その通りであり、ちがう意味では、そうではない、ということが、「私の言語」の
問題である、と永井先生はおっしゃっていますが、わたしもその通りだと思います。

>「言語以前」の場に私的言語が来るべきであると私は思っている。

わたしは、認識論的には「以前」というニュアンスで書いてきましたし、
存在論的には「相即」というニュアンスで、前スレから書いてきたつもりです。
たとえば、>>568に書いてあるようなのは、生物学的知見に基づいた認識論的なものとして、
もっと厳密に議論できるのですが、それでもいわゆる自然科学ではどうしても説明のできない
ところが、かならず「思われ」「感じられ」について、つまり「論理」と「感情」の誕生に
かかわる条件についての所で出てきます。

そこからが哲学の領分であり、この「思われ」「感じられ」という「現象」について、
それはどこで如何に起こったのか、というところから「私」が要請されることになる、
という具合です。そうやって、デカルトのコギトから、カントの超越論哲学、フッサールの
現象学……が誕生しました。永井やBさんにとってはどうでもよいことなのでしょうけれど、
わたしにはかれらは同志だし、かれらの哲学を敬愛しています。たとえかれらの(永井の)
哲学をどれほど批判しようとも、この気持ちは変わらないと思います。