少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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570カオル

たとえば、「私は歯が痛い」という経験命題は有意味に否定されうるものなのでしょうか。
「私は歯が痛い」は「ある人」に起こった事態ではなく、「ある人がその人である」ところに
起こった事態なのであって、このような直接経験の私秘性は、言語ゲームをはじめるに
あたっての必要な条件なのですから、疑ったり否定したりすることは端的に無意味です。

  たとえば私は、外部からそれとわかる脈絡や表出(転んで顔をしかめるとか)と
  いっさい無関係に、自分に向かってこう断言できる、「私がいま感じているのは、
  私がずっと『痛み』と呼んできたものである」と。

  「痛み」というだれもが知っている語が使われていても、これは私的言語である。
  なぜなら、他のだれがどう言おうと、これは‘私が’「痛み」と呼んできたものだと
  言っているのだから。──『私・今・そして神』(197〜198n)

‘私が’は、「ある人がその人である」という同一性──私は、この私である──のことで‘も’
あるでしょう。毎日、目覚めると起こる「思われ」、毎日じつはちがうことが起こっているのかも
しれないのに「ゆえに、存在する」とされる「私」は、あたかも持続しているかのようなあり方で
現われます。この開闢を「通り越して短絡させる」ことはできるでしょうか。この「私」は、言語
ゲームに登場することはできるのでしょうか。「私は歯が痛い」は、経験命題ではないのです。