少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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569カオル

私的言語の問題は『哲学探究』の243〜271節のおいて取り上げられ、冒頭の243節で、
私的言語とは、「自分の内的現象(感覚、感情、気分……)を自分だけの用途のために
記述/口述できる言語のことであり、それは自分だけが知りうる直接経験(感覚、感情、
気分……)を指示するがゆえに、他人にはけっして理解されない言語」と定義されます。
その後、さまざまな議論の結果、私的言語は不可能であるか(公的言語に回収される)、
あるいは無意味(nonsense)であるとされます。

もちろん、ここでいう「自分だけ」というのは、「ある人にとっての自分」のことだけれども、
「ある人」と「ある人にとっての自分」とは、言語ゲーム上の同一の主体ではないのです。
「ある人」は、客体として指示される「誤りうる」主体だけれど、「ある人にとっての自分」は、
客体として指示されうる主体、すなわち「誤りうる」対象ではなく、「ある人がその人である」
という「誤りえない」事実なのだから、そのことが言語ゲームに登場することはないのです。