568 :
カオル:
a「〜私的である」まではいいとしても、b「だから〜私的言語である」とはいえないのです。
たしかに、aとbとの「あいだ」での記号化という作業は、
この関係を独立の視点から同じように理解し把握する他者の存在は、ここではまだ想定
されていない。それにもかかわらず、メタレベルに立って相互に関係づけることが、
ただそれだけで、客観性の源泉となるのだ。……同書195nの同じ段落のつづき。
ともいえる、というかその通りですが、事柄の時間的前後関係から、ある特定の因果関係を
導き出すという、公的言語「以前」の
どこまでも「『後で』のように思われ」、「『際に』のように感じられる」だけである。
という「思われ」「感じられ」のメタレベルに立って──相互に関係づける──「私」は、
脳からはみ出した「私」なのかもしれないけれど、その「思われ」「感じられ」は
「いまだ言語ではない!」です。
私の直接経験の私秘性について、その事態が他人には起こらない以上、それを知ることはできない、
ということが問題なのではなくて、たとえばある感覚が別の感覚と区別されているということ、すなわち、
そのように区別しているという、そのことが、生(活)の形式にしたがっている(公的)ということなのです。
そのことによって言語が成り立つひとつの条件としての差異が可能になるからこそ、ある感覚について、
口述したり、記述したり、することができるのです。