563 :
カオル:
ウィトゲンシュタインの『探究』258節の「ある感覚」「E」について、
それには「二義性」が込められていた、という永井の推測についてですが、
かりに「個人的に私秘的な感覚」と「超越的に私秘的な感覚」との両義性を
みとめるにしても(この想定はその通りだと思う)、そのことからそれぞれを
「個人的に私秘的な言語」と「超越的に私秘的な言語」とに短絡させてしまう
ことはできないと思います。
なぜなら、ある「感覚」と、その感覚の「記号(言語)化」とは、それぞれ別の
位相に属する事柄だからです。だから「しくい」型私的言語にたいしての批判は、
その点──ある感覚(は)→ 生活形式(にしたがって)→ 言語化(使用される)、
という構成のされ方と、その構成のされ方によって可能になっているのが、時制、
人称、様相という言語システムである──についてのものでした。
ウィトゲンシュタインは、「私秘的な感覚」も、「E」という私的言語の「可能性」も、
否定していません。それらは公的言語の否定(言語ゲームを可能にする条件)として
あるのだから、そうであるなら、それらが言語ゲームには属さないことを示すことで、
それらを否定されえない「超越的」なものとして、あるいは言語ゲームを成立させて
いる条件としての「超越論的」なものとして残したのです。
564 :
カオル:2007/05/11(金) 23:53:42 ID:cjywi8Mx0
たとえば、「しくい」は「気分」という「人間の生の形式」を通して理解されています。
他の気分との区別によって、その気分に「しくい」という命名をしますが、この「区別する」
という作業、── @ある判断とその結果の記憶 → Aある感覚 → @とAとの照合
( → B基準(ある判断とその結果という因果関係の了解))→ C判断 → D結果 → @
──つまり、事柄の時間的前後関係から、ある特定の因果関係を抽出するという行為が、
そもそも「人間の生の形式」なのです。この「基準に照らして区別する」という生の形式を
「私的」に構成することはできないでしょう。
しくい気分になるのは、ろましい感情を味わった後だというのは、時間的前後関係であり、
その際こじむいワインが飲みたくなるというのは因果関係かもしれない。これらの関係は
私的出来事を相互に関係づけるのだから私的出来事に対してメタレベルに立つとはいえ、
それ自体はやはり依然として私的である。だから、「〜の後で」や「〜の際に」も、
その意味ではなお私的言語である。……『私・今・そして神』194〜195n
どのような感覚(「しくい」)であっても、それは「私」にのみ立ち現われるのであって、
他人に立ち現われることはないのだから、ほんとうに知りうるのは私自身だけであり、
ゆえに、直接経験について語られるとき、使用される言語は本質的に私的言語である、
と言いたくなるけれども、そうではないのです。
565 :
名無しさん@一本勝ち:2007/05/12(土) 00:07:46 ID:fc94rujQ0
___. \ プッ〜♪キャハハハハハハ〜♪ 少林寺最強〜♪ /
/│ ̄ ̄ ̄|
│.| ╋ | \キャハたん!お薬の時間だよー!/
| | |
ミミ皿皿皿皿皿皿皿皿皿| |皿皿l ̄ ̄ ̄l皿皿皿_
ミミ彡ミミミ 田 田 田 田 .| /| 精神病院 `|
ミミミミ彡彡ミ .| / | |皿皿皿皿皿
ミ彡ミミミ彡ミミミ 田 田 田 .|/ | | |
ミミミミ巛彡ミミ | .| |田 田 田│
ミ彡彡ミミミミミミ ≡ / | ̄ ̄ ̄ ̄| | │
ミミミミミミ彡ミミ二 三三 | | ---‖ | ̄ ̄| | ̄ ̄| | 三 三|
| ::;;:;;; 三三 三三 | | ┌─‖ |┐ ,| | .| |_三二 三二
| ;;:;::;;;;;;;;;;: | | | | ヽ |__| ‖ |│_| ,|____| | . || ||;;;;;;;
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566 :
名無しさん@一本勝ち:2007/05/12(土) 00:10:14 ID:doPYZ5ND0
ハァ? ボコッ
ふざけた事 . ,.'彡'・
言ってんじゃねえぞ /⌒ヽ';' ブフッ... ∧_∧
∧∧/)、`二(;;)^ω(:;)二⊃,.゚. (´∀`#) キャハ死ね!
(#゚Д゚/^)∴;'|;';.'/.;' '´。 ::;:,( つ
と ´ //`W( ヽ(;;;((⌒ ̄ ̄ ̄_ )
( ノ`´// ノ>ノ、' ''::;;;;::'''"´ ̄ヽ \
(__)彡 レレ ドカッ\\ (__)
↑ ↑
中国憲法 寸止空手
567 :
名無しさん@一本勝ち:2007/05/12(土) 00:12:15 ID:doPYZ5ND0
ハァ? ボコッ
ふざけた事 . ,.'彡'・
言ってんじゃねえぞ /⌒ヽ';' ブフッ... ∧_∧
∧∧/)、`二(;;)^ω(:;)二⊃,.゚. (´∀`#) キャハ死ね!
(#゚Д゚/^)∴;'|;';.'/.;' '´。 ::;:,( つ
と ´ //`W( ヽ(;;;((⌒ ̄ ̄ ̄_ )
( ノ`´// ノ>ノ、' ''::;;;;::'''"´ ̄ヽ \
(__)彡 レレ ドカッ\\ (__)
↑ ↑
中国拳法 寸止空手
568 :
カオル:2007/05/12(土) 00:21:27 ID:jB4GswHa0
a「〜私的である」まではいいとしても、b「だから〜私的言語である」とはいえないのです。
たしかに、aとbとの「あいだ」での記号化という作業は、
この関係を独立の視点から同じように理解し把握する他者の存在は、ここではまだ想定
されていない。それにもかかわらず、メタレベルに立って相互に関係づけることが、
ただそれだけで、客観性の源泉となるのだ。……同書195nの同じ段落のつづき。
ともいえる、というかその通りですが、事柄の時間的前後関係から、ある特定の因果関係を
導き出すという、公的言語「以前」の
どこまでも「『後で』のように思われ」、「『際に』のように感じられる」だけである。
という「思われ」「感じられ」のメタレベルに立って──相互に関係づける──「私」は、
脳からはみ出した「私」なのかもしれないけれど、その「思われ」「感じられ」は
「いまだ言語ではない!」です。
私の直接経験の私秘性について、その事態が他人には起こらない以上、それを知ることはできない、
ということが問題なのではなくて、たとえばある感覚が別の感覚と区別されているということ、すなわち、
そのように区別しているという、そのことが、生(活)の形式にしたがっている(公的)ということなのです。
そのことによって言語が成り立つひとつの条件としての差異が可能になるからこそ、ある感覚について、
口述したり、記述したり、することができるのです。
569 :
カオル:2007/05/12(土) 00:30:23 ID:jB4GswHa0
私的言語の問題は『哲学探究』の243〜271節のおいて取り上げられ、冒頭の243節で、
私的言語とは、「自分の内的現象(感覚、感情、気分……)を自分だけの用途のために
記述/口述できる言語のことであり、それは自分だけが知りうる直接経験(感覚、感情、
気分……)を指示するがゆえに、他人にはけっして理解されない言語」と定義されます。
その後、さまざまな議論の結果、私的言語は不可能であるか(公的言語に回収される)、
あるいは無意味(nonsense)であるとされます。
もちろん、ここでいう「自分だけ」というのは、「ある人にとっての自分」のことだけれども、
「ある人」と「ある人にとっての自分」とは、言語ゲーム上の同一の主体ではないのです。
「ある人」は、客体として指示される「誤りうる」主体だけれど、「ある人にとっての自分」は、
客体として指示されうる主体、すなわち「誤りうる」対象ではなく、「ある人がその人である」
という「誤りえない」事実なのだから、そのことが言語ゲームに登場することはないのです。
570 :
カオル:2007/05/12(土) 00:48:23 ID:L0tUlOfh0
たとえば、「私は歯が痛い」という経験命題は有意味に否定されうるものなのでしょうか。
「私は歯が痛い」は「ある人」に起こった事態ではなく、「ある人がその人である」ところに
起こった事態なのであって、このような直接経験の私秘性は、言語ゲームをはじめるに
あたっての必要な条件なのですから、疑ったり否定したりすることは端的に無意味です。
たとえば私は、外部からそれとわかる脈絡や表出(転んで顔をしかめるとか)と
いっさい無関係に、自分に向かってこう断言できる、「私がいま感じているのは、
私がずっと『痛み』と呼んできたものである」と。
「痛み」というだれもが知っている語が使われていても、これは私的言語である。
なぜなら、他のだれがどう言おうと、これは‘私が’「痛み」と呼んできたものだと
言っているのだから。──『私・今・そして神』(197〜198n)
‘私が’は、「ある人がその人である」という同一性──私は、この私である──のことで‘も’
あるでしょう。毎日、目覚めると起こる「思われ」、毎日じつはちがうことが起こっているのかも
しれないのに「ゆえに、存在する」とされる「私」は、あたかも持続しているかのようなあり方で
現われます。この開闢を「通り越して短絡させる」ことはできるでしょうか。この「私」は、言語
ゲームに登場することはできるのでしょうか。「私は歯が痛い」は、経験命題ではないのです。
571 :
カオル:2007/05/12(土) 00:51:15 ID:L0tUlOfh0
>Bさん
また、怒られてしまうでしょうか?(シンパイ)
どうしても永井の論で納得できない部分について、
このように解釈するなら理解できる、ということを書きました。
ただ自分の私的言語論を書きなぐっているだけかもしれませんが。
厳密さにおいて、どうも永井のアバウトさについていけないところが
あります。わたしがまちがっているのなら、どうしても知りたいです。
よろしくお願いします。m(__)m
572 :
カオル:2007/05/12(土) 01:07:27 ID:L0tUlOfh0
> Bさん
>だから、もう少し「私的言語は本当にあるのか」という問題に焦点を当てるべきじゃないかと思うんだ。
>私的言語とはこういうものだ!なんて話はまだ少し早いんじゃないかなぁ。
今日の議論は、この指摘を受けて書いたものです。
散々してきた議論のくりかえしなので、議論が後退しています。
ですから、今回の議論の後に、
>>10-14をもう一度みてもらえると
わたしの永井の議論の肯定の仕方がわかってもらえると思います。
>いずれにせよ言語とは「私の言語」でも「私的言語」でもありえないんじゃないのかな?
「言語とは」の「言語」とは公的言語のことですか? 意味がつかめないです。
永井の「私の言語」という表現は、「私の言語」が「私的言語」ではありえないこと
──言語ゲームに回収されてしまうこと──と、「私的言語」でしかありえないこと
──世界に同格の他者を想定しない言語、ゆえに無意味であること──の両義性を
示したものだと思っています。
>それでも、この言語が成立するためには本来的には語りえない「私的言語」が必要なはずだ、
なぜ、言語でなければならないのでしょうか?
573 :
B:2007/05/12(土) 01:11:28 ID:GHm4o8xB0
永井均の土俵でオリジナリティを主張するカオル、というこの構図が
<独在性>を巡る問題系の多くの部分を暗に映し出しているのかもしれないなぁ。
さて、カオルの議論を精緻に追うのが困難なのは、カオルにとって常に<独在性>の問題が
死んで表れるからだ。生きていない。いつも、どこからか解答をつれてこようとする。
<独在性>の問題がとうの昔に解決された問題として捉えられているからかもしれない。
ただ、カオルが自身の<独在性>のオリジナリティに固執していることだけは、ひしひしと伝わってくる。
>厳密さにおいて、どうも永井のアバウトさについていけないところが
>あります。わたしがまちがっているのなら、どうしても知りたいです。
>よろしくお願いします。
永井均が先の三部作で新しい境地に達したのは私が指摘するまでも無いことだけど、
その新しい境地にずっと以前から住んでいましたという風な口をきく人物とは
どのような人物なのか、と正直思う。
まず、永井均に必要最低限の敬意を払うべきじゃないだろうか。
見下している相手が何を言っても間違っている気がすることはよくあることで、
往々にして痛い目を見てから、自分の間違いに気づく。
>いずれにせよ言語とは「私の言語」でも「私的言語」でもありえないんじゃないのかな?
この発言はあらゆる私的な言語を否定しているのだから、結果的にここで言われる言語とは
公共言語ということになる。
>それでも、この言語が成立するためには本来的には語りえない「私的言語」が必要なはずだ
言語には外部がない。
>>36に書いてあるような「言語以前」の場に私的言語が来るべきであると私は思っている。
そしてそれを
>>19で書いた。
いわゆる「言語以前」が単純な「言語以前」だと言語は習得できないし、使用不可能だろう。
なぜなら、「黒板消し」を指して「こ・く・ば・ん・け・し」と教えてやっても
その指が「黒板消し」なのか、そこにある黒板消しひとつだけが「黒板消し」なのか
指し示された状態が「黒板消し」なのか理解できないからだ。
少なくとも何らかの意味で「言語以前」は言語的でなければならない。
(この類の話を永井均もしていたはずだ)
>Bさん
>永井均の土俵でオリジナリティを主張するカオル、というこの構図が
><独在性>を巡る問題系の多くの部分を暗に映し出しているのかもしれないなぁ。
そうやってわたしを見下すことのどこに価値があるのかわかりませんが、
そのように思いたいならば、そのようにしたいなら、そうすればいいです。
ところで、Bさんは永井を被害者あつかいしてないでしょうか?
永井はアカデミーの構成員であり、カオルのように「だれでも知識人」の世の中にあって、
その実質はともかく、真正の知識人として、哲学ではその頂点近くに立つ権力者です。
本人にその気があってもなくても、そのような立場にある人間の言説の力は大きく、
事実、日本の著名なアカデミーの哲学者で、永井を意識していない者はいないと思います。
むしろ、さわらぬ神に祟りなし、ではありませんが、まるで腫れ物にさわるようにして
永井を大事にあつかっているのが日本のアカデミアの風景です。永井はガキ大将なんです。
永井に毒されて、わたしにたいする感受性まで、永井の思う通りのようで、さみしいです。
>さて、カオルの議論を精緻に追うのが困難なのは、カオルにとって常に<独在性>の問題が
>死んで表れるからだ。生きていない。いつも、どこからか解答をつれてこようとする。
わたしの議論を精緻に追うことと、わたしの議論があなたにどのようにうつるかとは
別の問題です。たんに「カオルとは議論する気にならない」というだけなのでしょ?
>その新しい境地にずっと以前から住んでいましたという風な口をきく人物とは
>どのような人物なのか、と正直思う。
新しい境地がどのようなものなのか、わたしにはわからないから、
もしかしたらその人物は、わたしではないかもしれませんよ。
>まず、永井均に必要最低限の敬意を払うべきじゃないだろうか。
永井のどこに敬意を払えば良いのでしょうか?
永井の他の哲学者にたいしての人格批判、ダメ哲学者の烙印、イヤミ、皮肉、揶揄……等々、
その薄汚い行為をやめたら考えてみます。
けれど、大切なのは議論の内容だと思います。
永井は恥ずかしくて言えないのだろうけど──どうして私は、この私なのか──は、
言いかえると、私が生まれてきたことの、存在していることの、意味とはなにか?
と、問うているのでしょうから、その少年のような素直さはかわいい、と思いますよ。
>見下している相手が何を言っても間違っている気がすることはよくあることで、
>往々にして痛い目を見てから、自分の間違いに気づく。
いえいえ、ほとんどまちがっていない、と思っています。
わたしのなかで、もっともっと美しい理論にしたいだけです。
とは言っても「行儀のいい奴は基本的な存在じゃない」みたいなことを
ラッセルが言ってたような……〈私〉も行儀が悪いけど、私たちの世界も
不条理、二律背反、逆説に満ちていて行儀が悪い、サルトルの『嘔吐』に
出てくるマロニエの木のように気味の悪い姿が世界の真実かもしれませんね。
昨年はサルトル生誕100年記念で再版が目白押しでした。今なら読み放題です!
『嘔吐』は小説としてもおススメです!(もしよかったら)
>>43 Bさん
>この発言はあらゆる私的な言語を否定しているのだから、結果的にここで言われる言語とは
>公共言語ということになる。
はい。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」を「それは誰にでも妥当する一般的言明」だと言う
その意味では、その通りであり、ちがう意味では、そうではない、ということが、「私の言語」の
問題である、と永井先生はおっしゃっていますが、わたしもその通りだと思います。
>「言語以前」の場に私的言語が来るべきであると私は思っている。
わたしは、認識論的には「以前」というニュアンスで書いてきましたし、
存在論的には「相即」というニュアンスで、前スレから書いてきたつもりです。
たとえば、
>>568に書いてあるようなのは、生物学的知見に基づいた認識論的なものとして、
もっと厳密に議論できるのですが、それでもいわゆる自然科学ではどうしても説明のできない
ところが、かならず「思われ」「感じられ」について、つまり「論理」と「感情」の誕生に
かかわる条件についての所で出てきます。
そこからが哲学の領分であり、この「思われ」「感じられ」という「現象」について、
それはどこで如何に起こったのか、というところから「私」が要請されることになる、
という具合です。そうやって、デカルトのコギトから、カントの超越論哲学、フッサールの
現象学……が誕生しました。永井やBさんにとってはどうでもよいことなのでしょうけれど、
わたしにはかれらは同志だし、かれらの哲学を敬愛しています。たとえかれらの(永井の)
哲学をどれほど批判しようとも、この気持ちは変わらないと思います。
>いわゆる「言語以前」が単純な「言語以前」だと言語は習得できないし、使用不可能だろう。
>なぜなら、「黒板消し」を指して「こ・く・ば・ん・け・し」と教えてやっても
>その指が「黒板消し」なのか、そこにある黒板消しひとつだけが「黒板消し」なのか
>指し示された状態が「黒板消し」なのか理解できないからだ。
>少なくとも何らかの意味で「言語以前」は言語的でなければならない。
>(この類の話を永井均もしていたはずだ)
ここで為されている説明が指し示しているのが、まさに「生活形式」と呼ばれているものです。
「教えられたから理解した」のではなく、「教えられたから理解した」かのように振る舞ったので、
つまり、理解したかのように言葉が通じたり、理解しているかのように言葉を使用したりするのは、
私たちが「生活形式」を共有(位相同型)しているから、というのがウィトゲンシュタインの『探究』
における議論でした。
それにたいして永井は、かりに「教えられたから理解した」のであっても(というか事実そうでしか
ありえないと言っています)、「私の言語」の不変性の内部にある「私の(理解する)意味で」
「教えられたから」、「私の言語」の不変性の内部にある「私の(理解する)意味で」「理解した」の
であって、この「私の(理解する)意味で」を「私の理解する唯一の言語」で他人に向かって語る
ことはパラドキシカルである、と言っています。……『私・今・そして神』 198〜199n
前者も後者もともに「言語の使用が可能になる条件」として「超越論的」に要請されています。
この「超越論的」を「発生論的」に「以前/起源」へと溯ることは価値のある考察だと思います。
>Bさん
あなたはわたしの論に反対なのだから、そうなってしまうところの
あなたの論を聞きたいです。そうしてそれについて議論したいです。
もちろん、わたしの論について具体的に批判をしてくださるのなら
それが一番嬉しいですが。
睡眠時間もほとんど取らずに一生懸命に考えて書いています。
応えてほしいです。わたしのレベルが低くてどうしようもないなら
そのことを厳しく具体的に、わたしの論のどこがどうまちがって
いるのかを教えてください。よろしくお願いします。m(__)m
>カオル
私の態度が悪いというのはおそらく間違いないことだろうから、それは素直に謝るよ。
でも、カオルも自分のレスを一度読み返してくれ。
「私はこういう哲学的知識を知っています」っていうのが前面に押し出されすぎていないかなぁ。
それでいて<独在性>について何を言わんとしているか、驚くほどぼやけてる。
それに私の理解する永井均と全く違うところから彼を見ようという、
カオルの姿勢についていくのは大変な労力がいるということを理解してほしい。
とりあえず、最近サルトルの『嘔吐』を読み返したのかもしれないけれど、
存在の耐え切れない軽さや存在に対する嘔吐なんかとは正反対のことを
永井均は問題にしているのだから、こじつけてしまったらわかるものもわからなくなると思うよ。
どちらかといえば、無くたっていいのに現にこうして在ることの不思議、この私という特別な存在に対する驚愕が
問題になっているのだからもう少しポジティブ(非ネガティブというべきか)な渇いた問いだと思うよ。
ま、今は時間が無いからこういう概論めいた事しかいえないけど、
カオルがもう少し人にうまく伝える努力をしたら自分自身も問題を整理しやすくなると思うけどなぁ。