少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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559B
>カオル
そうだなぁ。言語「以前」という言葉を安易に用いたのはまずかったなとわれながら思う。

ただ、
>〈私〉の言語であり、かつ「私」の言語でもある
なぜそういえるのかもピンとこないけれど、この両義性がどういう意味を持つのかよくわからない。
いずれにせよ言語とは「私の言語」でも「私的言語」でもありえないんじゃないのかな?
それでも、この言語が成立するためには本来的には語りえない「私的言語」が必要なはずだ、
という筋立てなら論旨はわかるけれど、その「語りえないもの」がさらに細かく分類されるべきだ、
という話はなにか違和感を覚える。
「語りえないもの」をそうやって細かく分類するというのは、「詳しく語ることができる」という
暗黙の下敷きをすけているようにも思えるから。
もちろんカオルの言っていることをよく理解できていないのに、全面的に否定するつもりはない。
ただ、先走りすぎているんじゃないのかなって思う。
今までのスレの流れでは、「私的言語はあるとも無いともいえない」と言えてるに過ぎないと思う。
その中で私なんかは、<私>は語りえないのにあることを知ってしまっているということと
私的言語の問題を類比的に考えて私的言語はあると、擁護してきた。
でも自分でもこの擁護はいまいち根拠薄弱だと思う。
だから、もう少し「私的言語は本当にあるのか」という問題に焦点を当てるべきじゃないかと思うんだ。
私的言語とはこういうものだ!なんて話はまだ少し早いんじゃないかなぁ。

>一応、稚拙でもわたしなりに考えて書いています。
私に言っていることじゃないかもしれないけれど、それはよくわかってるし、みんなにも伝わっていると思うよ。
560カオル:2007/05/11(金) 23:31:55 ID:cjywi8Mx0
Bさん、お忙しいところレスありがとうございます。
>今までのスレの流れでは、「私的言語はあるとも無いともいえない」と言えてるに過ぎないと思う。

それなりの正しい到達点だと思っています。〈私〉の、ある/ない、ということが
同じ一つのことなら、世界の側からの物言いの限界はそのようになってしまうからです。

>もう少し「私的言語は本当にあるのか」という問題に焦点を当てるべきじゃないかと思うんだ。

前スレ483さんの問い(>>9)が、そのことについて考察することになると思います。

>>21
>あと、〈神さま〉=〈私〉というのは論外として、
>〜ちなみに他はともかく、ニーチェの「力への意志」は<私>とは関係がないと思うなぁ。

論外で、関係ないのは、たぶんわたしがわたし自身の問題にしてしまっているからです。

  生成に存在の性格を刻印すること、これが力への意志の極致である。
  ──ハイデガー『ニーチェU』

〈私〉に(現に存在するという)この「私」の性格を刻印すること、これが神さまの意志でした。
けれども、〈私〉は、神さまの知性(あらゆる存在の可能性)でもあったのではないでしょうか。
なぜなら、〈私〉は、時も場所も人物も選ばないはずなのだから、カオルがクレオパトラでも
よかったのだから。それでも、神さまが「現に存在させた」のは、この「私」、カオルなのです。

この〈私〉と「私」の同一性が必然なのだとしたら、それは〈私〉が〈神さま〉だからではないのか?
なぜなら、そうでなければ、開闢の〈私〉が、開闢した世界に、自己(この「私」)を位置づけること
なんてできないからです。みずからをみずから開いた世界に位置づけるなんて〈神さま〉にしか
できないからです。

  私たちのうち、たった一人しかいないかのように、神は私たち皆を愛す。
  ──アウグスティヌス『告白』
561カオル:2007/05/11(金) 23:39:40 ID:cjywi8Mx0
>個人的に(公的)言語以前が「私的言語」になるんじゃないかとにらんでる。

言語の使用を可能にする条件としての私的言語については書いてきたつもりです。
永井はウィトゲンシュタインが言語ゲームを可能にしている確実性の岩盤として
指し示した「生活形式」を否定しているわけではなく、もうひとつの岩盤として、
「私の言語」の不変性の内部にある「私の意味で」を超越論的に要請しています。

ですから、それを主として、他を従として、あたかも主従の関係があるかのごとくに
想定してしまったのでは──私1は、なぜこの私2なのか?──の問いの重要性が、
損なわれてしまうように思うのです。なぜなら「この私2」の内容はどのようであっても
よかったはずなのに、なぜ「私1は、この私2なのか」、という問いのはずだからです。

  「我思うゆえに我あり」が抱える驚異も同じだ。もしそれが正しいなら、
  それは現に存在している‘この’私を、それだけが現に存在している‘この’私を、
  指せないのではないか。デカルト自身が、それは誰にでも妥当する一般的言明だと
  言っているのだから。指せるためには、私自身が私自身の思いの中で「ゆえに存在する」
  とされたその「私」を、現に存在する私自身と‘現に’結合させている必要がある。
  そんなことが可能だろうか。それが「私の言語」という問題である。
  
  ──『私・今・そして神』「第3章 私的言語の必然性と不可能性」(184n)

「ゆえに存在する」とされた「私1」と、現に存在する「この私2」とが‘現に’結合して
いるからこその問いが、──私1は、なぜこの私2なのか?──ではなかったのでしょうか?

もちろん、わたしの言う「私1」「私2」は、それぞれ永井では「私2」「私1」のように逆転しています。
なぜなら、永井の強調する‘この’とは‘比類なき’ということだから。でも、この逆転は〈私〉から
「私」への「ずれの運動」の反転なのです。このような逆転が可能でないなら、すなわち双方が
双方の原理(相即の原理)でないのなら、〈私〉は「私」の「起源」「以前」に位置づけられてしまい、
フッサールの轍を踏むことになってしまうでしょう。