Bさん、お忙しいところレスありがとうございます。
>今までのスレの流れでは、「私的言語はあるとも無いともいえない」と言えてるに過ぎないと思う。
それなりの正しい到達点だと思っています。〈私〉の、ある/ない、ということが
同じ一つのことなら、世界の側からの物言いの限界はそのようになってしまうからです。
>もう少し「私的言語は本当にあるのか」という問題に焦点を当てるべきじゃないかと思うんだ。
前スレ483さんの問い(
>>9)が、そのことについて考察することになると思います。
>>21 >あと、〈神さま〉=〈私〉というのは論外として、
>〜ちなみに他はともかく、ニーチェの「力への意志」は<私>とは関係がないと思うなぁ。
論外で、関係ないのは、たぶんわたしがわたし自身の問題にしてしまっているからです。
生成に存在の性格を刻印すること、これが力への意志の極致である。
──ハイデガー『ニーチェU』
〈私〉に(現に存在するという)この「私」の性格を刻印すること、これが神さまの意志でした。
けれども、〈私〉は、神さまの知性(あらゆる存在の可能性)でもあったのではないでしょうか。
なぜなら、〈私〉は、時も場所も人物も選ばないはずなのだから、カオルがクレオパトラでも
よかったのだから。それでも、神さまが「現に存在させた」のは、この「私」、カオルなのです。
この〈私〉と「私」の同一性が必然なのだとしたら、それは〈私〉が〈神さま〉だからではないのか?
なぜなら、そうでなければ、開闢の〈私〉が、開闢した世界に、自己(この「私」)を位置づけること
なんてできないからです。みずからをみずから開いた世界に位置づけるなんて〈神さま〉にしか
できないからです。
私たちのうち、たった一人しかいないかのように、神は私たち皆を愛す。
──アウグスティヌス『告白』