少林寺が弱いといわれるのは仕方ない第38章

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551名無しさん@一本勝ち
永井には、あくまで「言語」にこだわってほしいです。
そうでなければ、どうして〈私〉という表記にこだわるのか、
どうして「私の意味で」なのか、‘私の’‘意味で’なのか、それこそ意味不明だからです。

西田の「絶対無」、ハイデガーの「存在×」、ニーチェの「力への意志」、デリダの「不在の実体」……は、
どれも永井で言うところの「ずれの運動」、「私はこの私である」という差異そのものとしての実存の成立を
指し示しています。これらの議論に回収されてしまうのであれば、それはわたしの議論がつまらないように
つまらないものになってしまうように思います。もちろん、永井の意味で、ですが。

>ひょっとして私的言語=言語以前なんていうかもしれない。

私的言語=公的言語以前、というより、
私的言語=公的言語、でしょうか。…… 双方が双方の原理としてはたらいている。
「=」は、文字通りに「区別がつかない」ことと、双方が双方の「絶対否定」として〈ある〉ことの
存在論的差異を示していて、この差異そのものが言語存在者としての自己同一性を可能に
している、というような。

はじめに言ありき。

「神さまの言葉は私的言語であり、あらゆるすべてに通じるそれは公的言語である」

と、永井が言うなら大いに納得できます。もちろん、〈神さま〉=〈私〉です。

また怒られてしまいますか?
552B:2007/05/11(金) 23:14:21 ID:q6PtEw4p0
>>551
>カオル

後半はなかなか鋭いところを突いているんじゃないかと思う。
でも私的言語=公的言語というのは少し先走りすぎじゃないかなぁ。
あと、〈神さま〉=〈私〉というのは論外として、
「はじめに言ありき。」っていうのはかなりいいセンいっているように思う。
だからこそ、個人的に(公的)言語以前が「私的言語」になるんじゃないかとにらんでる。

ちなみに他はともかく、ニーチェの「力への意志」は<私>とは関係がないと思うなぁ。
553B:2007/05/11(金) 23:15:01 ID:q6PtEw4p0
>個人的に(公的)言語以前が「私的言語」になるんじゃないかとにらんでる。

「個人的に」じゃなくて永井均がそう言っているというのが正しい。
宇宙に果てがあるのか無いのか知らないけれど、言語には果てがない。
554カオル:2007/05/11(金) 23:16:24 ID:cjywi8Mx0
>Bさん

>「個人的に」じゃなくて永井均がそう言っているというのが正しい。

説明してもらえますか?

本当に永井が時間的前後関係を示唆する「以前」という位置に
「私的言語」を持ってきているのなら、まちがっていると思うので。
555B:2007/05/11(金) 23:17:34 ID:q6PtEw4p0
>カオル
なんとしても永井均の間違いを見つけようという態度はやめたほうがいいと思う。

それはそうと、むしろ、単純な言語以前は存在しないといっていたとおもうなぁ。
幼児期の言語「使用」以前を言語以前と見る向きがあるけれど、完全に言語の外にいるなら
いくら親が言葉を教えても理解できるはずが無い。「痛い」という言葉の習得に関して
『私・今・そして神』でそんな議論を展開していたはず。

(公的)言語以前に私的言語が来るのは私秘的という言葉では表せられないほどの
私秘的なものが――つまり<私>が、公的なもの――「世界」とでも言えばいいのか――以前にくるのと同じ要領。
556カオル:2007/05/11(金) 23:18:22 ID:cjywi8Mx0
>Bさん
>「痛い」という言葉の習得に関して『私・今・そして神』でそんな議論を展開していたはず。

他者の存在とは無関係に──(生活の形式の外で)──「痛い」という言葉を習得するのは
不可能ですが、それが「私の言語」──(‘私が’「痛い」と呼んできたもの)──であるなら、
じつは「痛い」という言葉の習得、つまり「私の言語」を可能にしたのは、「痛い」を、
「私の(理解する)意味で」「痛い」と、この「私」が(理解する唯一の言語として)「思う」という、
──〈私〉と「私」の存在論的差異における差異そのものとしての実存の成立、自己の二重
構造における自己言及(自己同一化)という──「前提」があってのことなのです。
……『私・今・そして神』197〜199n

けれども「私の(理解する)意味で」は「他者の存在とは無関係に」ということなのであって、
言語の使用を可能にする「起源」としての「言語以前」に位置づけてしまうと誤解されやすい
と思います。たとえば、永井はデリダのフッサール批判をひいて、言語は「私と同格の他者」
「現在と同格の過去」の存在を承認しなければ機能しないと考えられる、と述べています。
つまり、こちらの方のフッサールの「起源」への哲学にたいするデリダの批判が有効になって
しまうのです。(永井の意に反して有効だと思いますが)……『私・今・そして神』218〜219n

「世界に同格の他者が存在しない」からこそ「私の言語」は「私の意味で」「私的言語」である、
しかし言語は、たとえ私的言語であってもそれが可能であるかぎり、どこまでも同格の他者の
存在(対称性)を要件としているのだから、私的言語が可能であるとは「世界に同格の他者が
存在する」という対称性がどこまでも満たされてしまうことで‘も’ある、すなわち私的言語が
可能であるかぎりは、いつもつねに「私の言語」は「私たちの意味で」「公的言語」で‘も’ある、
という永井の議論なのですから、そこには「以前」「起源」という想定はないと思います。永井は
言語が可能であるなら「私の意味で」は「超越論的」に要請さればければならない、と言いたい
のではないでしょうか。「超越論的」と「起源」や「以前」とは相容れない概念だと思うのですが。
……『私・今・そして神』221〜223n
557カオル:2007/05/11(金) 23:19:20 ID:cjywi8Mx0

以上は、ちなみに「私の言語」と「私的言語」は同じものなのか、という455さんの疑問について、
わたしなりの回答でもあります。「私の言語」は、〈私〉の言語であり、かつ「私」の言語でもある、
というようなあり方しかできない、という「私の言語」の両義性のために、つまり「私の言語」の
使用においての「ずれの運動」──私が、この私であること──についての問題であるために、
「私の」を「私的」と短絡させることができないのです。だから、わたしが「私的言語=公的言語」
と書いたのも、それは「私の言語」ことでした。一応、稚拙でもわたしなりに考えて書いています。