まず,新刊で出てくる「私的言語」について,「「しくい」型私的言語」と,「「くすぐら
れたのになぜか痛い」型私的言語」(略して「「痛い」型私的言語」)を区別してみる。
区別するのは,この2つで内容や根拠等が異なると思われるため(言葉の意味の逆転とか
絵日記の話が出てくると,さらに別の段階のようだが(214頁以下),そこまで頭が回らない)。
「しくい」型私的言語は,公共的な言葉では表せない,私だけが感じる感覚等を指す言葉で,
言語として成り立つ根拠として,私が「しくい」と思う確信以外に,私的感覚相互の連関が
あれば,それによる正当化ができるなどとされている。
「痛い」型私的言語は,(1)誰が何と言おうと,また私的連関に反してでも,私が「痛い」
と思うなら痛いのである,という点と,(2)「しくい」のように公共的でない言葉ではなく,
普通の言葉が使われているのが特徴と思われる。このような「痛い」という言葉が言語と
して成り立つのかどうかという点については,新刊205〜206頁あたりの議論が関係して
いると思われるが,現時点でよくわからない。
ついでに疑問点を書くと,「しくい」型私的言語では,私的連関が根拠として挙げられて
いるが,一方で「痛い」型私的言語は,私的連関に反しても痛いということは正しいと
されている。すると,この2つの「私的言語」に関する議論は矛盾しているのではないか
(あるいは,「痛い」型私的言語は,言語として成り立たないのではないか),という
疑問があり得ると思われる。しかし,それはとりあえず置いておく。
次に,永井は,以前の本では,ウィトゲンシュタインの私的言語について,すでに共同体の
一員として認められている主体の内的体験に関する私的性格(個人的私秘性)と,まだ
共同体の一員として認められていない,あるいは決して認められることのない主体の内的
体験に関する私的性格(超越的私秘性)との区別が曖昧であるとしている。そして,個人的
私秘性についての私的言語は,「ある特定の感覚が繰り返し起こることについて日記をつける」
という状況描写が有意味である限り,可能であるようなことを書いている。一方で,超越的
私秘性については,(1)ウィトゲンシュタインが問題にしようとしていたのは,普通の痛みで
はなく,公共的な脈絡で痛みを感じることはないため,自分の感じるもの(<痛み>)を語る
ために「痛み」という言葉を使うことができないような子どもの<痛み>である,よって,
実は,ウィトゲンシュタインの状況描写は公共言語でなされておらず,有意味ではない,
(2)ウィトゲンシュタインが,すでに共同体の一員として認められた人格主体の持つ感覚から
外的諸基準を除去するだけで超越的私秘性に達することができると考えたのは,間違いである,
などとしている(『<私>のメタフィジックス』44〜47頁,『<魂>に対する態度』85〜88頁)。
新刊197頁にも,だいたい同旨のことが書いてある。(微妙に違うのは,超越的私秘性に関する
私的言語を使う主体が「初めてしかも独力で意味付与を行う独我論的な主体」であるか(『<私>
のメタフィジックス』45頁),「私的言語の力によってはじめておのれを持続的主体として
客観的世界の内部に位置づけようとする主体」であるか(新刊197頁)という点か。特に,
「独力で意味付与」であるかどうかが,意味があるのではないかという気がする。)
このような,ウィトゲンシュタインの「私的言語」に関する永井の指摘と,永井自身の新刊の
「私的言語」を対比すると,まず,「しくい」型私的言語は,個人的私秘性に関する私的言語と
だいたい同じと思われる。永井は,「しくい」型私的言語については,昔から可能であると
主張していたが,新刊では私的感覚相互の連関という根拠を新たに示し,さらに客観性成立
という議論とつなげたところが新しい,ということになるかと思われる。
この点については,永井はウィトゲンシュタインに反論していることになり,あとは,その
反論が妥当かどうか,ということになるだろう。
次に,超越的私秘性に関しては,「しくい」型私的言語が超越的私秘性の問題と区別されて
いることは,以前の本の論旨全体からして間違いないと思われるが,では「痛い」型私的言語
が超越的私秘性に対応あるいは関係しているかというと,疑問がある。
超越的私秘性に関して出てくる<痛み>(そもそも「痛み」という言葉が使えないはずのもの)
と,「痛い」型私的言語が指している痛みとは,内容的には同じものだろうかという気もするし,
公共言語によって意味が与えられないはずという点も共通しているように思われる。しかし,
相違点も大きいと思われる。
(続き)
まず,前者は,そもそも全く言葉で意味を与えられないはずであるが,後者については,一応
「痛み」という言葉が使われている。また,前者は,共同体の一員では全くない者についての
ものであるとされているのに対し,後者については,共同体の一員でないとまでは言われて
いない。ここで>前スレ541の独り相撲に引きつけてみると,前者は,『哲学探求』261節の議論で,
意味を与えられないはずのことを言おうとしても,言語ゲームとか共同体の中でどうしても
意味を与えられてしまうという理由により,否定されると思われるが,後者は,意味を与えら
れないはずということは当てはまらず(私にとっては,むしろ「痛み」の意味が分かっている
ことが前提と思われる),言語ゲームや共同体の中であるからといって直ちに否定されるもの
であるということもないと思われる。
問題は,逆に,「痛い」などという普通の言葉が,なぜ「私的言語」と呼ばれるのか,という
方向だろうか。この点に関して思いついたことを書いてみると,「誰が何と言おうと,これは
私が「痛み」と呼んできたものだ」「くすぐられたのに,なぜか痛く感じる」などという言葉
は,実は私にしか理解できず,また私の意味での「痛み」でしかない,という点では,「私的
言語」と呼べる,ということだろうか。永井の議論で「痛み」などに関して誤りえないことが
強調されているのは,他人たちの違い(さらには過去の絵日記との違い?)を強調することで,
他人に理解されないことや,「私の意味で」という点を示すためだろうかと思われる。もちろん,
それだけだと雑すぎるので,もっと別の議論をすべきとは思うが(特に,他人から「「痛み」とは
地球の衛星の名前なのだから,君が痛みを感じるはずはない」などと言われることを想定すると,
他人に理解されないという意味では,立派に「私的」と言える気もする。)。
(続き)
「痛い」型私的言語が,なぜ「私的言語」と言われるのかに関して,もう一つ思ったことを
書いてみると,新刊184頁には,「我思うゆえに我あり」がこの私を指せるかについて,
「指せるためには,私自身が私自身の思いの中で「ゆえに,存在する」とされたその「私」を,
現に存在する私自身と現に結合させている必要がある。そんなことが可能だろうか。それが
「私の言語」という問題である。」とある。
このことと,「私的言語」とがつながっているとすると(文脈からするとつながっていると
思われるが,しかし,それならなぜ「私的言語」ではなく「私の言語」と書いてあるのだろう),
「痛い」という言葉について,現に私が感じているこの痛みと結合させることができるなら,
「私」という言葉についても,現に存在するこの私と結合させることができる,というような
ことなのだろうか。しかし,「私」(<私>)については,いくらこの<私>を指そうとしても
他人に読み替えられてしまう,と,永井は今まで何度も論じてきたはずなので,今になって
それが可能だと論じるというのも変な気がする。
このあたりは,私には現時点では不明だと言うしかない。
無意味に長くなってしまったが,まとめると,(1)「しくい」型私的言語については,永井は
ウィトゲンシュタインに反論しており,あとはその議論の妥当性が問題だ,(2)「痛い」型
私的言語については,ウィトゲンシュタインの「私的言語」と対応するかどうかわからず,
相違点も多くあるので,もっと検討が必要ではないか,ということ。結局,新しいことを
書いていない気がする。
やはり,本来は,新刊の「私的言語」がどういう意味を持つのかをもっと積極的に論じないと,
生産的な議論にならないと思われるが,今の時点でできる範囲ということで,一応書いてみた。
これを手がかりに進められる点があったら,また書いてみる。
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